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今週のつぶやき親仁・2020年12月6日(日)~12月12日(土)

●「頼朝の伊豆配流
金之助「主人先生よ、近頃コラムが更新されていないとスタッフが心配しているにゃん。どうかしたにゃんか?」

主人先生「そうなんじゃ、師走ともなれば少しはバタバタしてくるしな、それにコロナじゃからな、いちばんはネタがないことじゃ。山岡荘八の『源頼朝』は11月で読み終えたんじゃがな、読破してしまうと満足心が先行してな、それをネタのブログも精が出ないのじゃな」

金之助「そういえば池禅尼の助力によって清盛から殺されることを免れた頼朝は伊豆へ流されたあと、どうなったにゃん?」

主人先生「そうじゃたそうじゃった、金之助は猫だけあって執念深く覚えておるな、いいぞいいぞよ。頼朝が清盛の命で伊豆への配流が決まったのは頼朝が14歳の時じゃ。時は1160年3月のことじゃ。京を出た頼朝はむろん陸路で伊豆に着くのだが、そこでの見張り役が、もともと平氏の北条氏と藤原氏の末裔でもともと源氏に仕えていた伊東氏じゃったんじゃ。余談だがの、この伊東氏の末裔関係が日向の国の伊東氏じゃな。これは追って詳しく話そうぞ。その頼朝の配流地じゃがの、北条、伊東両氏の話し合いで決まったのが狩野川の川中島(中州)である、彼の有名な蛭ヶ小島(伊豆の国市)じゃな。1160年6月中旬のことじゃった。頼朝は意識的に伊豆へは直行せずに、駿河の三島明神(静岡県三島市)から箱根権現(神奈川県箱根町・芦ノ湖湖畔)を回りそれらの神社や寺院を参り、祈念したのじゃな。うん、その顔は『何を望んだと?』、そうじゃな頼朝が祈念したのは父、義朝の供養と、それにじゃ源氏再興への誓いであったはずじゃな」

金之助「主人先生よ、源頼朝さまが平氏を打ち破るのに蹶起したのはずいぶんと後にゃん?」

主人先生「そうじゃな、以仁王の平家追討の令旨が出たのが1180年の4月でな、石橋山の戦いで敗れ安房へ敗走したのが、その8月じゃ。ところでな伊豆に配流されてからの頼朝は実にその20年間を耐えに耐えて平氏の衰退を待っていたのじゃがな、つまりは清盛入道の死をじゃな。その20年間に頼朝が行き来した場所が、今や、立派な観光地じゃ」

金之助「そういえば、この10か月間は『今月の旅』もお預けですからにゃん。『伊豆の頼朝の旅』にゃんちゅうのもイケるにゃん?」

主人先生「そうじゃそうじゃな、頼朝はその20年の配流生活でいろんな所に行っているんじゃな。それはな、先の三島明神、箱根権現をはじめ、来宮明神(熱海市)、伊豆山(伊豆権現・密厳院=高僧の文陽房覚淵阿闍梨、熱海市)、伊東祐親邸(伊東市)、北条時政邸(伊豆の国市・狩野川の東岸)、山木郷(館)・山木判官兼隆邸(伊豆の国市山木)、奈古谷寺(=那古屋寺・伊豆の国市・狩野川向かいの江間小四郎の邸・蛭ヶ小島に近い)、そして石橋山(石橋山古戦場・神奈川県小田原市)・・・・・・ざっとこんなもんじゃな」
※頼朝は、密厳院では文陽房覚淵阿闍梨のもとで仏道・学問を、箱根権現では武道を修めた。

金之助「そんなに沢山あればにゃん、コロナ禍後の『今月の旅』も、もう決まったようなもんにゃん? 羨ましいにゃん!!」

主人先生「そうじゃな、国内での新型コロナワクチン接種も予定より大幅に前倒しかもしれんしな。コロナ禍後の旅ラッシュは見ものじゃな。そろそろ航空会社やホテルの株価が上がってもおかしくないんもんな。ともあれ、それまで我慢の巣ごもりじゃ。行ってみたいところを吟味して貯めて順番を決めておかんとな。これから忙しいぞな。呵呵!!!」

つづく。12月11日。

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