●先日の今上天皇のお言葉のなかに「伝統の継承者として・・・・・・」という文言がありました。1800年の歳月、天皇の皇位は特別な場合の女性天皇を除いて、大原則は「男系男子」であります。Y遺伝子の継承ということです。これは日本の天皇制の根幹でしょうか。一種のドグマであります。「伝統の継承者」の条件を今上天皇がどのようにお考えなのか・・・・・・皆が察するしかありません。特例的な女性天皇(敬宮愛子内親王)を容認する意見もありますが、女性天皇誕生は女系天皇を生む契機ではないかとの憂慮もあります。皇位継承第3位の悠仁親王がおられるから、あと数十年はとりあえず大丈夫だとの意見もありますが・・・・・・如何せん皇族の人数が少なすぎます。明治天皇までは側室をもつことができましたから、男子がひとりかふたりと言う事はありませんでした。しかし、悠仁親王ひとりとなると、医学も発達しているし・・・・・なんて暢気なことも言ってられません。皇太子と皇太子妃に不妊治療を施すなんて・・・・・・想像できますか。何代にも遡って旧皇族や宮家の男系男子を探し当てることも・・・・・・果たして現実的なのでしょうか。愚直な親仁の安直な思考回路では限界であります。明仁(今上)天皇はじめ第1皇位継承者の皇太子徳仁親王、第2継承者の秋篠宮文仁親王がどのようにお考えなのか・・・・・・伺う(否、窺う)しかないのでありましょうか。歴史に無知無縁な外野がああでもないこうでもないと吠えることは慎むべきでしょうが、状況が切迫しているのは確かです。政治家には危機感が見てとれませんが・・・・・・。憲法4条と皇室典範の改正・・・・・・一時しのぎの特別立法で片づけるのは今上天皇の思いではないと・・・・・・これだけははっきりしているのではないでしょうか。8月27日。
●諸説あるなか、神武天皇から14代の仲哀天皇までは実在が疑問視されている神話時代であます。実在の始まりは15の応神天皇からであります。生没年や在位期間が分るのは第29代の欽明天皇からで、その生没年は507年以降~571年・在位は?~571年である。応神天皇が生きたのは大和朝廷の時代であります。大和朝廷はヤマト王権とも言われているようで、現在の歴史区分では「古墳時代」とされているようです。年代では紀元後250~592年であります。そうであるなら、日本の天皇制はかれこれ1800年近く存続していることになります。もちろん、このように遠くからの家系が明瞭な王家は世界に類をみません。つづく。8月27日。
●上杉家存亡の危機の2度目は上杉家9代目(出羽米沢藩では8代目)・重定(しげさだ・1720~1798)の時である。重定には勝煕(かつひろ・1760~1807)という長男がいた。「上杉重定の長男として米沢にて誕生するが、既に内約がすすみ、庶子であったので、誕生したその年に10歳年上の治憲が上杉氏の養子になった。このため、治憲の養弟と『寛政重修諸家譜』では扱われている。勝煕は文化4年(1807年)まで生存していたが、天明2年(1782年)に治憲は勝煕ではなく、勝煕の同母弟である勝意(後の治広)を養子とし、勝煕が米沢藩主になることはなかった。しかし、治憲の実子である顕孝と寛之助、治広の子の久千代が早世してともに男系が絶えたのと対照的に、勝煕の子である斉定や勝義が米沢藩主や支藩の米沢新田藩主を継ぎ、以後この両家は廃藩置県の後に至るまで勝煕の血筋で続くこととなる。」(Wikipedia引用)。上杉家9代目が重定、10代目が上杉鷹山こと治憲(はるのり・1751~1822)、11代目が治広(はるひろ・勝煕の同母弟・1764~1822)、12代目が勝煕の実子・斉定(なりさだ・1788~1839)、13代目が斉憲(なりのり・1820~1889)とつづく。さて上杉鷹山であるが、5代目の綱憲の女子・豊姫は筑前秋月藩主の黒田長貞(くろだながさだ・1695~1754)に嫁ぎ、その娘・春姫が日向高鍋藩主の秋月種美(あきづきたねよし・1718~1787)に嫁した。その種美の次男が治憲こと上杉家10代藩主・鷹山である。つづく。8月27日。
●「生前退位」。きょうの未明~明け方放送の「朝まで生テレビ 激論 象徴天皇と生前退位」で侃侃諤諤というよりは喧喧諤諤と騒音を発していましたが・・・・・。少しだけ拝見し見放しましたが・・・・・。ちょうど今、「上杉鷹山 人を活かし、人を動かす(鈴村進著・三笠書房・知的生き方文庫)」を読んでいるところで、天皇家の永久存続に関して、上杉家存亡の危機時の知恵が活かされないものかと、勝手に思うところですが・・・・・・。上杉家はもともと公家(出自は京都府綾部市上杉町)であり、鎌倉幕府の将軍・宗尊親王の従者として関東に下向して武家化した氏族であります。その後、越後・上野・武蔵・相模の守護となり、最も栄えたのが承知のように越後の上杉謙信(=長尾景虎・政虎・輝虎・1530~1578)であります。戦国時代は男子がいたとしても兄弟で家督を争う場合が少なくありませんが、謙信の場合、子をなしませんでしたから、当然のごとく遺領相続争いが起こりました(御館の乱)。謙信の2人の養子景勝(1555~1623)と景虎(北条氏康の子・人質として武田信玄の養子・その後謙信の養子となる・1553~1579)の争いであったが、謙信の姉の子にあたる甥の景勝が勝利し、長尾上杉家の2代目となりました。景勝は執政の直江兼続(1560~1619)とともに関ヶ原で敗退し、会津(120万石)から米沢へ移封され、同時に減封(30万石)となりました。そこでですが、この上杉家は謙信以来、子種に恵まれないというか、後継ぎの男子が誕生しないと云う御家存亡の危機が2度発生しました。最初は4代目綱勝(つなかつ・1639~1664)の急死に因るのですが、この時は綱勝の妹で高家旗本吉良義央(きらよしなか・忠臣蔵で有名な吉良上野介義央で赤穂事件で斬殺・1641~1703)に嫁いでいた参姫(上杉富子=梅嶺院1643~1704)の長男・綱憲(つなのり・1663~1704)を5代目として迎えました(末期養子)。これは、綱勝の先妻の父である保科正之(家康の孫・初代陸奥会津藩主・1611~1673)の尽力に因るものですが、この時にも知行高は半減され15万石となりました。つづく。8月27日。
●あらたまって明仁天皇の「お言葉全文」を読み返してみました。
「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、・・・・・・天皇が象徴であるであると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じてきました。・・・・・・その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。・・・・・・天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。・・・・・・天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、・・・・・・とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。・・・・・・始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する機能を有しません。・・・・・・そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話いたしました。国民の理解を得られることを、切に願っています。」。
上皇とか法皇の形の院政でなく、ひとりの人間として(一般の人間のようにはいかないでしょうが・・・・・・)隠居生活をさせてくれないでしょうか・・・・・・というように感じました。現皇太子も秋篠宮も十二分に御成長され、全てを任せられると御判断されたのでしょう。現憲法では「生前退位」についての文言がありませんので、どういう形にしろ(皇室典範改正)、天皇の御希望をかなえるのが安倍政権の早急の課題となります。国民の8割から9割が「天皇のお言葉」と「生前退位」を支持しています。
私もかねがね言っていますが、日本でいちばんの働き者は天皇陛下と美智子皇后ではないでしょうか・・・・・・それも82歳と81歳の御高齢ですよ。安倍政権は「憲法9条改正」に傾注しているようだが、歴代内閣を含め、天皇家や皇族の憂慮に関しては何らの配慮もないではないか・・・・・というような叫びも聞こえてきそうです。8月21日。
●天皇皇后両陛下が4月3日、奈良県橿原市の神武天皇陵を参拝された。神武天皇は古事記によると137歳で、日本書紀では127歳でなくなった。その在位が紀元前660年から亡くなる76年間であったから、今年はちょうど没後2600年となる。零(れい)式艦上戦闘機、俗に言うゼロ戦が初めて空を飛んだのが昭和15年(1940)であり、天皇即位から2600年ということで零式と呼ばれた。さて、歴代天皇について考えてみよう。「初代・神武天皇から今上天皇まで、125代が挙げられる。この125代のうち、第37代・斉明天皇は第35代・皇極天皇の、第48代・称徳天皇は第46代・孝謙天皇の、それぞれ重祚(一度退位した天皇が再び位に就くこと、再祚)であるため、総数は123人となっている。」(Wikipediaより引用)。今回は「天皇」のさわりについて書いて見ようと思います。つづく。