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今週のつぶやき親仁・2018年8月12日(日)~8月18日(土)

●いよいよ今日は準々決勝。鳴いても笑っても残りは7試合。100回記念大会で出場は56校。全55試合での、残り7試合。そして今朝の第一試合ラジオの担当アナウンサーは小野塚康之氏。眼覚めを良くする快調な声の響きだ。ラジオの実況をBS朝日(正確には大阪が本社のABC放送)の映像で確認する。テレビは音消しだ。ラジオの電波のほうが1~2秒差で速いから、ラジオ実況をテレビで確認追い(追認)する格好となる。球種、コース、球速、打球の方向、野手の動き、選手の内面(心の動揺)を正確に実況しているか、アナウンサーの度量が知れる。若手だと「違うだろ」の連発だ。若いといっても入局して数年は受け持てない。NHK史上ふたり目の高校野球ラジオ実況女性アナの澤田彩香氏も入局6年目の起用である。彼女は東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。出身高校は滋賀県の膳所。地元近江と智辯和歌山の対戦を担当した。現在、宮崎放送局勤務の武本大樹氏(2012年入局)も担当している。ガンバレ、若アナ。改めて小野塚アナの熟達した軽妙な語り口とその内容の正確性には驚愕ですぞ。つづく。8月18日。

●かつて鈴木紀夫(1949~1986)という男の冒険家がいた。「かつて」・「いた」とは失礼だ。いまだ多くの日本人の記憶の底に刻印されている男だ。きょう3日ぶりに2歳の男児が無事救助された。この歳になると歳少々のことで涙腺は緩まないが、救助したボランティアのオヤジさんを見て自然と目頭が熱くなった。そして鈴木紀夫を想った。「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っていた鈴木氏。1974年2月、ついにルバングのジャングルで小野田寛郎(1922~2014)氏との接触に成功。翌月の帰国につなげた。その後、鈴木氏はヒマラヤの雪男発見に挑み、夢途中で遭難死した。純粋に男として羨ましいのだ。ところで親仁の身近にも遭難者捜索で貢献した人がいる。もう20年かそれ以上前のことだが、村の老人が認知症で行方不明になった。消防団や警察が捜索し、発見したのは親仁の身近な人であった。捜索はふたり一組。陽も完全に落ちた夜の8時半頃、山中の藪の中で発見。ざわざわと物音がしたのが発見に至った。今回も(あえて「も」)警察の面目は丸つぶれだ。2歳と言えども当人は必死の死に物狂いだから1キロでも2キロでも歩くに違いない。それにテレビの映像で見る限りは5~6人の多人数がグループで回っている(誘拐の可能性もゼロではないだろうが、凶悪犯を探すのではないのだから、5~6人は多すぎ)。さらに日暮れで捜索を打ち切り、朝は7時の捜索開始だ。今なら2時間早くても夜は明けている筈だ。教訓にしてもらいたい。8月15日。

●中学1年と大学、大学院の頃、カーフェリーを利用したことがあるから、それはもう46年から30年も前のことになる。最初は中学1年の夏休み、叔父さんのトラック運送の助手(手伝い)として細島から大阪まで。次は大学2年の時に信楽の植林地での草の下払いのバイトに行くために細島から大阪まで。川崎細島間は東京時代の往復のため利用した。全部で数回は乗ったであろう。しかし瀬戸内海を航路とするフェリーを利用したことはなく、一度はこの航路を是非利用したかったのである。なぜなら源平合戦でも、高田屋嘉兵衛の北前船も、そして龍馬や高杉晋作や西郷どんもここをよく行き来していたのである。嵐のなかでも自由自在に船を操った村上水軍や毛利水軍。ある時は海賊として、ある時は戦闘の水夫(かこ)として、ある時は権力の用心棒として、ある時は水先案内人として、それぞれの時代を裏方で彩ってきた水軍の気持ちをわずかでも味わってみたかったのである。そうはいっても細島や宮崎港には瀬戸内を通過するフェリー便はない。車で乗船しないのなら大分まで電車で行くしかない。日豊本線で別府まで行き、そこからタクシーで別府観光港へ。別府を午後7時半に出港し、六甲アイランドのターミナルに着くのは翌朝の6時45分。実に11時間15分の船旅であった。つづく。8月14日。

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