●23日、昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月の元侍従の故小林忍氏の日記に、「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と漏らしたことことが記載されていた・・・・・・ことが報道された。長崎の元市長や名のある政治家も堂々と昭和天皇の戦争責任を発言してきたし、今も憚らずに主張する政治家が少なくない。多くの国民もそう思っているのであろう・・・・・・がしかし、戦後ずいぶんと時間が経った今、戦争責任は軍部上層部や思想家、マスコミに限らず、国民ひとりひとりにも少なからずの責任はあった・・・・・・と言う考え方に傾いているのであろうが。爪の先ほどの微塵も責任がなかったと胸を張れる日本人はほんの一握りであろう。半藤一利氏の「歴史と戦争」(幻冬舎新書・2018)の98ページの「神風特別攻撃隊について天皇は」に、「昭和十九年十月二十五日、神風特別特攻隊による最初の体当り攻撃が行われた。二十六日、軍令部総長よりこの奏上を受け、天皇は言った。『そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった』以下略」。8月24日。
- 彼の「8号門会」で名を馳せ甲子園本も出版して一世を風靡した「ラガーマン」。未だに有名人で観客とのツーショット写真も気軽に応じていた。写真は第4試合、6時を過ぎてもビールを売り
- 写真は警察車両の掲示板。「おんな酒場放浪記」出演の倉本康子氏らが立ち寄った居酒屋の屋号の文字を駆使してその店の食べログ評価するのと同じように、出場校の校名で交通安全標語を
- 終えた若手のアナに小一時間も指導をしていたことだ。試合の合間の30分でも終わらず、次の試合の2回終わりまで助言をしていた。こうして一流が育てられるのだと感慨深いシーンであった
- ファインプレーでは頭に青筋を立て、腰を浮かして熱演するのであります。私が観戦した日には必ず報道席に姿があった。ある時は後輩アナの隣に座ってジェスチャーやメモでアドバイスを