●畏れの、ついでながら天皇の譚。神武天皇を初代として今上天皇は125代目である。神武天皇から14代の仲哀天皇までは神話時代と言われ実在したかどうか大いに疑われている。神話の拠り所は「記紀」(古事記と日本書紀)に負う。実在の15代応神天皇から今上天皇まで、古い時代ほど、眉唾物的な存在もある。司馬さんも、「『日本書紀』に、継体天皇というふしぎな存在が出てくる。この人はいまの福井県(越前)に住んでいた。越前の伝承では九頭竜川、足羽川、あるいは日野川の流域平野を大いにひらいて農業生産をあげたという。その在世は五世紀から六世紀にわたっている。(略)名は男大迹王(もしくは彦太尊)とよばれた。おそらくかれは、富強であったであろう。この勢力家の正体については『日本書紀』は応神天皇5世の孫であるという。実父はいまの湖西線ぞいの滋賀県高島郡にいたともいう。実際はどうであったかわからず、そういう由緒は当時でもつくることができるのである。たとえかれが五世の孫であったとしても、五世代も経って、しかも父が湖西の草ぶかい高島の地にいたという程度ならば、地下の者とさほどかわらない」(司馬遼太郎「街道をゆく18・越前の諸道」・p11・朝日文庫)・・・・・・と書いている。「地下の者とさほどかわらない」は強烈だ。戦勝国と敗戦国の指導者、国民の戦争責任に対する考え方は正反対かもしれない。勝った側の大将、将軍は相手を多く殺したほうがより英雄であり、負けたほう(味方をたくさん殺された側)がその真逆である。昭和天皇も今上天皇も、多くを語らないが(語れないのか)懸命な行動でその償いを暗黙に示されている。われわれ下々の国民もそうあるべきで、政治家も況やである。司馬さんが書いたように、天皇も生身の人間である。英国ロイヤルのように天皇家がより身近な存在であっても良いのではないか。生の気持ちを訴えたり、たまにはお忍びで銀座を散策するような存在であってもらいたい。そういう国になってもらいたい。※継体天皇は26代。8月27日。
●ついでながら天皇の譚。平成の明仁天皇の戦地や戦没者慰霊訪問には畏敬の念が湧く。戦争に関わることに限らず自然災害や震災など時間さえあれば現地に足を向け、膝を折って被災者に寄り添い語り掛け励まされる。毎週のようにその光景がテレビに映る。80歳を超えた人間とは思えないくらいアグレッシブだ。頭が下がってありがたい。昭和の裕仁天皇も戦争責任に対して日々自責の念に苛まれた・・・・・・と、侍従の日記が語った。終戦まで天皇は現神であった。が、少なくとも日露戦争以前にはそうでなかった。平安末期から鎌倉の武士の世になってからは、鎌倉は源と北条氏、室町は足利氏、戦国は信長や秀吉、江戸は徳川氏の政権によって良いように操られ利用されてきた。幕末は薩長や一部の公卿が京都御所を思うが儘に操縦した。孝明天皇に至っては岩倉具視と大久保利通による暗殺説まである。そうであるから天皇が現神人でないことは今に始まったことではなく、厳然とした一個の生身の人間なのだ。そうであるから昭和天皇も自身の戦争責任を人の何十何百倍も感じていたのだろう。つづく。8月27日。