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今週のつぶやき親仁・2018年11月4日(日)~11月10日(土)

天皇の靖国神社親拝問題。「靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国東インド艦隊の司令官ペリー来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになった。」(Wikipediaより)。靖国問題は1985年8月7日の朝日新聞報道が発端である。昭和天皇がA級戦犯の靖国合祀を嫌ったった・・・・・・というのが真相である。「富田メモ」や「卜部亮吾侍従日記」で明らかになっている。戦後、昭和天皇が靖国神社を親拝したのは1945年、1952年、1954年、1957年、1959年、1965年、1969年、そして最後が1975年11月21日である。明仁・今上天皇の参拝も全くない。A級戦犯、殊に東條英機の靖国合祀に極めて批判的なのだ。「選んではならない首相像」・「東條人事こそ陸軍最大の誤り」。昭和天皇と木戸幸一が東條英機に首相就任を命じたのは昭和十六年(一九四一)十月十七日。戦争突入の機運が絶頂になる中、昭和天皇は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の考えで、強硬派の陸軍を抑えられるのはその主導者である東條しかいないであろう・・・・・・と考えたのである。「支那撤兵」を懇願した近衛文麿内閣の後の内閣である。大命降下を受けた東條は、開戦を「白紙還元」する内閣を組織するようにと天皇から伝えられていたのである。が、にもかかわらず大命降下のたった50日余り後の12月8日、真珠湾を攻撃したのである。このことをして昭和天皇も、そして平成天皇も靖国を親拝しない理由なのである。このことは保阪正康著「昭和の怪物 七つの謎」(講談社現代新書・2018年7月)に詳しい。11月7日。

西郷どんの譚。「五月二十九日に人吉を退いた西郷が、宮崎の町に入ったのは、三十一日であるらしい。結局、かれはほぼ六十日間、宮崎の町にいた。」と司馬さんの「翔ぶが如く・十巻」(p11・文春文庫)にある。人吉から敗走してきた薩軍、この時点では西郷さんと桐野利秋との関係は冷え切っていたのだろう。桐野は今の松橋にあった宮崎支庁に詰め、中村の遊郭に通い、遊女松尾という妓を気に入り、豪遊していたという。一方の西郷さんは、宮崎支庁から1.5キロ離れた農家に居を定めていた。そこは今の広島一丁目界隈で黒木某という農家だった。黒木家の庭つづきに金丸という農家があり、その家の十一歳の亀松という息子の案内で兎猟をしたという。むろん犬を伴ってのことだ。その猟支度の着流しと連れの薩摩犬が上野の西郷さんの銅像のモデルではないかという。中村町で神武様を観ながら、ふと140年前の光景を思い浮かべ、そして「翔ぶが如く」を開いた。西南戦争の終盤の60日という長い間、西郷さんと桐野利明はこの宮崎でそれぞれに何を思ったか、想像に難くない・・・・・・最期を覚悟した・・・・・・ある意味安息の場所であったのでしょうか。11月6日。

●その平成という30年間の時代は、われわれ日本にとって幸運にも戦争を起こすことも巻き込まれることもなかった。明治には国内では先の西南戦争1877年(明治10年2月~10月)が、国際では日清戦争(1894年=明治27年8月~1895年4月・東学党の乱を機に日清が朝鮮出兵・下関条約)と日露戦争(1904年=明治37年2月~1905年・ポーツマス条約)が起こり大陸へ出兵した。大正には第一次世界大戦(1914年=大正3年6月のサラエボ事件~1918年=大正7年11月のドイツ降伏・ベルサイユ条約)でシベリアなどに出兵した。昭和は言わずもがなの太平洋戦争(1941年=昭和16年12月8日の真珠湾攻撃~1945年=昭和20年8月15日・ポツダム宣言)である。問題の自衛隊の海外派遣は行われたものの、平成は総じて平和であった。今生ける者として感謝しなければならない。次の元号もそうであってもらいたい・・・・・・国民皆で努力しなければならない。11月5日。

●なぜに元号の譚になったのかというと、それは文化勲章親授式であります。明仁・平成天皇にとって最後の親授式でした。今年の受賞者は5人。文化功労者は20人。私の興味は画家の受賞なのですが、この数年は寂しいかぎりです。文化勲章は当時の内閣総理大臣の廣田弘毅の発案で始まりました。1937年(昭和12・4月28日発令)のことです。第1回の受賞者は長岡半太郎(物理学)、本多光太郎(金属物理学)、木村栄(地球物理学)、佐佐木信綱(和歌・和歌史)、幸田露伴(小説)、岡田三郎助(洋画)、藤島武二(洋画)、竹内栖鳳(日本画)、横山大観(日本画)で、なんと画家が4人もいたのです。今話題のバンクシーではありませんが、独創的な新境地開明に若手の奮起を期待するのです。11月4日。

●書店に入ると、目に付いたのが2019年のカレンダー。よく見ていないが西暦が主だ。詳しくは調べていないのでテレビのニュース程度の知識しかない。徳仁天皇の即位は2019年5月1日。それまでは明仁・今上天皇の平成時代であるが、平成31年は昭和(1926年12月25日~1989年1月7日=昭和天皇崩御の日)がそうであったように4月30日で終了するのでしょうが。しかるに平成31年と印刷されたカレンダーが店頭に並んでいても一向に違和感はないのであります。とこらがですよ、明治の場合、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)なのですが、慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日としていたのですから、紛らわしさを無くすにはいっその事、2019年1月1日に遡って「新元号」に直しても良いのでは・・・・・・とひとり夜なべの暇つぶしに考えているのです。11月4日。

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