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今週のつぶやき親仁・2019年11月24日(日)~11月30日(土)

●油屋熊八は別府に招喚されたのでもなんでもなく、自分から移住してきたようです。では、破天荒なプロフィールを、像裏面の刻文を略して紹介しましょう。
1863(文久3)年、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。
30歳のとき大阪へ出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。つけられたアダ名が”油屋将軍”。
34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
46歳のころ、別府温泉へ移り住み、ホテルを経営しはじめた。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、”山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・・・・・当時はだれも思いつかないような奇抜なアイデアをつぎつぎに実行した。(亀の井ホテルの創業者)。
美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。”地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。(亀の井バスの創業者)。
由布院を観光地として開発。(亀の井別荘の建設)。別府-由布院-久住高原-飯田高原-阿蘇-長崎を結ぶ道路をつくることも視野にいれていた。
1935(昭和10)年、別府市で死去。享年73歳。熊八の”ここを世界の観光地にしよう”との夢は、別府・由布院のあちこちに息づいている。
11月29日。

●「地域起こし」か「地域興し」か・・・・・・手っ取り早い手段がそこに天才か破天荒な人間を招喚して住んでもらうこと。何かで読んだ記憶だが、栃木の益子焼を全国区にしたのが陶芸家で民芸運動家でもあった濱田庄司(1894~1978)という。益子焼は、「江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ・火鉢・壺などの日用品として製作されていた。その後1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。」(Wikidediaより)。 別府にもいました・・・・・・司馬さんも、「伊予の人だという。掌が異様に大きくて、その大きな掌で人に握手すると誰でも熊八が好きになったといわれた。大正末年か、昭和初年だったかに、この熊八が全国巨掌(大掌?)大会とかいうものをこの由布院で催したそうで、作家の長谷川伸もそれに参加するつもりでやってきたともいわれる。」(司馬遼太郎「街道をゆく・8」p137・朝日文庫)。そうです、この「油屋ノ熊八」(同pp129~139)さんこそが、此処別府と由布院の観光「起こし」と「興し」に大きく寄与した破天荒人なのだ。つづく。11月26日。

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