ローマでの「朦朧会見」とヴァチカンでの「破廉恥見学」。小生も、限りなく「朦朧」に近い、無類の「しょうちゅうくれ」だが、もちろん、「国の恥」や「国益損失」に匹敵するほどの「悪態」を吐(つ)いた記憶はない。
「意識朦朧」とは時に聞く言葉であるが、「朦朧」を広辞苑で字引くと「①おぼろなさま。かすんで暗いさま。②物事の不分明なさま。③意識が確かでないさま。」とある。○川○一大臣の会見は、風邪薬とソムリエ級の財務省随行員が厳選したワインとの相乗作用で、「意識が確かでなく、会談の内容も碌(ろく)に理解も出来ず、会見会場の記者の顔も霞んで」、見えなかったのである。
「朦朧体」とは、「詩文・絵画などで、明確な意義・輪郭などを有しないもの」(広辞苑)である。1906年(明治39年)、岡倉天心(1862-1913)率いる「日本美術院絵画部」は茨城県五浦(いづら)にて活動を開始した。天心は、4人の弟子の横山大観(1868-1958)、菱田春草(1874-1911)、下山観山(1873-1930)、木村武山(1876-1942)に「雨が降っている状況を点や線でない技法で描けないか」という問題を投げかけた。そこで試みられ、出た答えが、没線描法の「朦朧体」である。薄い墨汁を刷毛(はけ)筆で引いて拡げる手法である。「朦朧体」で描かれた降雨は、ある時は時雨であり、または豪雨でもある。大観の「雨脚が白く染めた(康成の「伊豆の踊子」を拝借)富士の高嶺をV字飛行する雁の群れ」は圧巻である。小生の所望は、川合玉堂(1873-1957)の「谷間(たにあい)の民家の辺(ほとり)にある大きめの水車が時雨に煙っている風景」であるが・・・・・。
「朦朧体」は泥酔して呂律(ろれつ)が回らない状態の「身体」を言うのではない。「あらゆる大局的な観点から世界を見る」というのが横山大観の雅号の由来である。ヴァチカンの博物館観覧もよろしいが、日本の巨匠・大観の作品を前に正座して、「大観」してもらわねばならない。