●1924年(大正13年、26歳)1月、パリに到着。初夏、里見勝蔵に連れられ、ヴラマンク(1876~1958)を訪ねる。自作の「裸婦」を見せるが、ヴラマンクからアカデミズムを指摘され、衝撃を受ける。11月末の山田新一宛ての書簡(展示有り)で、「現在自分がヴラマンクよりもユトリロ(1883~1955)に近いものを描いている・・・。二、三00枚の絵を描いたが、気に入っているのは一〇枚位・・・。シャガール(1887~1985)、モディリアーニ(1884~1920)の個展に感動・・・」と報告(展示有り)。1926年(大正15年、28歳)1月、約2年のパリ滞在を終え、米子、彌智子、兄・祐正と共に帰国。同年9月~10月にかけて「下落合風景」を30点も連作(展示有り)。1927年(昭和2年、29歳)8月、大阪を出発し、京城(現在のソウル)で山田新一を訪ね数泊後(展示有り)、シベリア鉄道でモスクワを経由して同月、パリ北駅に到着。1928年(昭和3年、30歳)6月、山田新一がパリに到着し、病床の佐伯を見舞う。同年8月16日、セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去。同月30日、彌智子も結核で死去(享年6歳6カ月)。10月31日、2人の遺骨と共に米子が帰国。つづく。10月29日。
●佐伯祐三(1898~1928)は1898年(明治31年)4月28日に大阪・光徳寺の住職であった祐哲(ゆうてつ)の四男三女の次男として生まれる。1915年(大正4年)の17歳時、洋画家・赤松麟作(1878~1953)の塾に通う。1917年(大正6年)9月に上京し、小石川の川端画学校に入り、藤島武二(1867~1943)の指導を受ける。同所で山田新一(1899~1991)に出会う(19歳)。1918年(大正7年、20歳)で東京美術学校に入学。1920年(大正10年、22歳)、池田米子(1897~1972)と結婚。1921年(大正10年、23歳)、渡欧直前の里見勝蔵(1895~1981、ヴラマンクに師事)を池袋に訪ねる。武者小路実篤(1885~1976)の家を訪れ、ゴッホの「向日葵」を見せてもらう。この年、自分のライフマスク(都城美術館で展示有り)を作成。1922年(大正11年、24歳)、長女・彌智子(やちこ)が生まれる。1923年(大正12年、25歳)、東京美術学校西洋画科を卒業。卒業制作は「裸婦」と「自画像」(どちらも展示有り)。同年、自宅が関東大震災で半壊。同年11月に神戸港から米子、彌智子ら6人とともに日本郵船の香取丸でパリへ出発。つづく。10月29日。
●九州高校野球決勝戦は、神村学園が初回表に一挙8点を取り圧勝。九州学院は1回裏の1点のみ。2回以降は両チームとも無得点で9回を終えた。11月23日開幕の明治神宮野球大会は神村学園が出場する。宮崎西の選抜出場は少し微妙になったが、可能性はある。10月29日。
●昨日の129回九州地区高等学校野球大会の準決勝第一試合・九州学院(熊本第1代表)vs創成館(長崎第1代表)は九州学院が9対0の7回コールド勝ち。第二試合は神村学園(鹿児島第1代表)が開催県の大分・別府青山(第3代表)を6対2で降した。今日は決勝戦。九州学院が優勝すれば宮崎西の甲子園出場実現の可能性が生まれる、であろう。創成館のコールド負けは印象が悪すぎるのだ。出場校の決定は「高野連の役員の意思が反映」されるので、コールドゲームのような場合、必ずやベスト4に固執しないという事だ。本日12時からの決勝戦が気にかかる。10月28日。
●画家には失礼だろうが、「蓼食う虫も好き好き」であるから、人によって贔屓の画家も違うのは当たり前だ。が、佐伯と荻須を比べたら、作品数の差にもよろうが、佐伯の格のほうが圧倒している。山田新一に至っては戦争画で評価が高い位であろう。荻須さえそうであったように、パリに着いた山田の画風は明らかに佐伯の影響を受けた。裸婦でのタッチや照度が近い。佐伯の死の前々日、病院で最後に面会したのは山田ら2人だけだった。妻・米子もその場には同席していない。その時、佐伯は2つの絵の行方を案じ、喪逸させぬことを懇願している。その2つの絵が展示してある。死の年の1928年(昭和3年)の「扉」と「黄色いレストラン」だ。どちらも扉が画面いっぱいに描かれている。絵具のチューブからの直塗りもあれば、いったんぶち付けたものをヘラで削った跡もある。壮絶な葛藤だが、扉の奥には「この絵は、純粋ですか?」の答が潜んでいたのであろうか。佐伯の死はそれを知ってからの夭折であったのだろうか。10月27日。
●佐伯祐三(1898~1928)は30歳の若さで、憧れのパリで病死した。肺結核と精神を病んだ末のことだ。佐伯が山田新一に送った文面には脱アカデミックと向上心が漲っている。驕ることなき追及心が病を深刻化させたのであろう。長生きしていたら、熊谷守一(1880~1977)の如くに辞退しない限り、文化勲章は授与されていたであろう。佐伯とパリでの時空を共有した荻須高徳は、主なモチーフが建物の壁で作風が似通った処がある。勿論、荻須が佐伯の影響を受けたのだ。その荻須は文化勲章を死後に追贈された。1968年(昭和61年)秋のことだ。広辞苑の荻須高徳にも「洋画家。愛知県生れ。東京美術学校卒業後、渡仏。佐伯祐三の感化を受け、パリ風景を平明で構築的な画風で描く。文化勲章。(1901~1986)」とある。つづく。10月27日。
●今日は都城市立美術館へ出向き、「佐伯祐三&山田新一」展を鑑賞してきた。絵画の感想はさておきの後回しとして、館内の行き届かない気配りの無さにげんなりだ。まずは、展示されている佐伯祐三から山田新一に送られた貴重な手紙文面の活字文字が小さすぎて読むのに難渋した。絵を掛けたクロスの壁が貼り替えられてなく、前の額ピンの孔跡が壁一面に見られた。天井から吊るす方式に変えるべきである。帰りしなに特設の売店で佐伯関連の葉書と本を買ったが、フロントにはレジがなく美術館員(??公務員かバイトかは不明)が電卓で計算し、レシートも無い。文句を垂れると、「レジはあるのだが、いつもは葉書しか販売していないので・・・・・」の開き直り。田舎美術館だから仕方ないと思えないのが「公務員天国」を忌み嫌うひとりの自営業主なのだ。10月26日。
●宮崎西校、善戦したが実力負けは明らか。今日の新聞にもあるが、21世紀枠での候補9校は12月中旬に発表され、明けて1月27日に決定する。21世紀枠は2001年から導入され、2001年~2007年までは全国で2校、2007年からは3校に増えた。九州では2001年の宜野座(沖縄)と2007年の都城泉ヶ丘(本県)、2009年の大分上野丘(大分)の3校。その他にも2003年から「明治神宮大会枠」が設けられており、神宮大会で優勝校を出した地区に追加の1枠が与えられるという制度。この制度で九州からは2005年戸畑(福岡)が選ばれた。さらに2003年から2008年まで「希望枠」があったが現在は存在しない。21世紀枠では、2009年に利府(宮城)、2010年に山県中央(山形)が選ばれており、今回の震災で東北1校が選ばれる可能性が高いので、もう1校は「口蹄疫・普賢岳」の宮崎であってもらいたい。10月26日。
●この国の住民で居続けたら、そのうち癌で死んでしまう。東京に出現した「ベクレル表示」の食料品(野菜)店。驚くなかれ! 日本の米の暫定基準値は500ベクレル(単位はBq/kg)で、ドイツの子供4ベクレル・大人8ベクレルを大きく上回る。あのチェルノブイリでさえ20ベクレル。なんだこの国の政治屋や学者は! 何を考え、とろとろしてんだ、鈍間軍団め。産地が異なる産物を混ぜ合わせたら、いとも簡単に基準値以下じゃないか。つづく。10月26日。
●「JA反対運動を煽動」(毎日新聞25日付1面)。『日医関係者は「農協は関税や補助金などで守られている自分たちがいかに生き残るかが主眼。・・・」』(同)。「TPP反対議員356人を公表 全中」(YAHOO JAPAN トピックス)。なりふり構わぬ農協の足掻き。今のシステムで農家が、山村が、国が・・・絶滅せずに再興すると思っているのだから質が悪い。それに署名する国会議員の無能度合い。海外で勝負できる産物を生産する、企業の海外販売力や製品加工能力(第6次産業)、品種改良技術・・・これらがキーワードだ。山間部の棚田に代表される原風景は、そりゃ、税金を出してでも守らなくてはなるまい。要は、臨機応変性が重要で、農協を完全に排除するものではないが、今のようなしがらみとこちんこちんに固まった脳味噌の集団が排除されなくては明日の日本はないということだ。10月25日。
●今年はマツタケが豊作らしい(写真有)。マツタケが豊作だと、その年の柚子は不作らしい。「里古りて柿の木持たぬ家も無し」との芭蕉の句がある。先人は、柿の実のなり具合でその年の米の豊作を占った。先日、二十数年ぶりに日豊本線に乗ったが、柿の木もめっきり減り、「はぜかけ」米はほぼ皆無。山村の子供らの遊ぶ光景も皆無。間伐された杉は放置され、伐採後の山はそのあと植林された様子も無い。荒れ放題だ。柿は腹の足しにもなった40年前。「里荒れて柿の木朽ちた家ばかり」ってとこか。車窓から見えた宮崎と大分の県境の廃れ具合。哀しい限りだ。今日は宮崎西vs九州学院が10時5分からラジオ中継される。10月25日。
●宮崎西の初戦、自由ヶ丘(福岡第1位代表)戦は、1アウトで3塁に走者がいるケースが2度あった。1度でもスクイズを敢行して成功していたら、延長戦にもつれ込むことはなかった。勝負は勝てばよいのであろうが、次戦も強気でいける(勝てる)と思わない方が良かろう。霜降(そうこう)の10月24日。
●都城商業は大分3位の別府青山に11対6で負けたとの速報。別府青山は22日の臼杵市民球場での第1試合で熊本代表(2位)のルーテル学院に4対1で勝利した。明日は宮崎西が新大分球場で九州学院(熊本第1位で昨日、大分4位の藤蔭を9対4で退けた)と対戦する。勝てばベスト4で甲子園が決定する。10月24日。
●21日・金曜日の大雨。22日の朝、まさかと思い臼杵市民球場へ電話すると、予定通り開催されるとのこと。急遽仕度して南宮崎駅10時25分発の上りにちりん10号に飛び乗り、出発。前日には予約しておいた佐伯のホテルと鮨屋をキャンセルしてのことだったが・・・、午後1時、球場に着くと、豈図(あにはか)らんや、グランドコンディションはベスト。つづく。写真有。10月23日。