コンテンツへスキップ

今週の親仁ギャグ・2011年12月18日(日)~12月24日(土)

●神道や仏教徒の多い日本だが、異文化に興味津津で、順応は世界逸品の日本人。今日はクリスマスイヴ。Eveは前日の意味で、なんでか~、日本ではケーキを喰らう習慣がある。小生はクリスチャンでもケーキ屋でもないから理由は知らない。学校で習った記憶も無い。40年以上前の小学の頃、12月24日の夜は地域の公民館で「子供会」があり、解凍されたと思われる直径が10cm程の円いデコレーションケーキが1人1個配られた。そのためだけの「子供会」であったろう。今のように苺やチョコレートなどでのデコレートは無かったように思う。蝋燭と籾木やサンタなどの飾り物は乗っかっていたが・・・。当時は1年でこの夜だけしか食えなかった。家にそのまま持ち帰るが、5人の家族では2個のケーキはあっという間に消えた・・・のだな当時は皆が貧しかった、懐かしい時代だ。※1.当時の配当ケーキの代金は親が払う「子供会費」から賄われたのか、村の予算から出たのか不明。というか、当時そんなことを考えられる捻た餓鬼はいなかった※2.日本での初めてのクリスマスは、1552年(天文21年)現在の山口県山口市で宣教師コメス・デ・トルレスたちが日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行った事という。※3.それ以降はキリスト教が弾圧されたが、1990年に明治屋が銀座に進出し、この頃からクリスマス商戦が始まった。ケーキは戦後(1948年以後)から洋菓子店で販売されるようになり、今に至る、ようだな。「丑の日」に「鰻の蒲焼」と言い、「節分」の「恵方巻」と言い、商売人の考えるこったな・・・。12月24日。

「八ッ場ダム中止」撤回。「フクイチ」が多大に影響してのことかも知れぬが、これまた説明不足というよりも「撤回の説明がない」。泥鰌の最初は縮れ頭を隠す程の泥かぶりで強(したた)かさも持ち合わせているかと思ったが、今や、底なし沼状態の蟻地獄に直降下中。元・国交相の前原政調会長の面目を潰し、今日は中島政希議員の離党届提出。年明け早々から3月には政界大編成と総選挙だな今や、今や・・・、「大阪維新の会」いや「全国維新の会」か「みんなの党」からの出馬を狙い澄ましている輩の多いこと「みやざき維新の会」も誕生する可能性大だな。12月24日。

●「口蹄疫の真相を究明する連絡会議」の14項目の公開質問状で問われていることは県、殊に家畜保健衛生所の初動検査の正当性であろう。水牛農場の口蹄疫発生前に安愚楽牧場の発生が、さらに遡って2月には高鍋で口蹄疫疑いの牛が存在した可能性があるということだ臨床獣医師が1人では手に負えないと判断した場合、家畜保健衛生所に連絡を取る。今回の場合も臨床獣医師の依頼で家畜保健衛生所の獣医師が現場を訪問しながら、口蹄疫を見逃したのではないかとの疑念が見てとれる。22日、県庁の保健衛生と畜産担当者(いずれも獣医師)にレプトスピラの届出書類について苦情(抗議)の電話を入れた。「口蹄疫でPCR検査を実施しなかった家畜保健衛生所に、PCRで確定診断したレプトスピラ犬の件で、義務の無い他の血液検査添付を指図されたくない・・・」などとぶちまけると、何と、返ってきた言は「犬のレプトスピラのPCR検査ができるとは知らなかった」。これじゃ、口蹄疫も見逃す訳だこの問題は農家や犠牲となった牛豚はもとより、現場で日夜奮闘している臨床獣医師への信頼を深く傷つけ、延いては獣医師全体の矜持に関わる重大問題である。まだまだ、つづく。12月23日。

要は確定診断が重要であり、口蹄疫もレプトスピラもPCRで陽性ならばそれ以上もそれ以下の検査も必要ない。口蹄疫を見逃したと言われても反論できない失態を犯した者が指図をするとは何事ぞ。現場の獣医師を馬鹿にしているか知らぬが、臨床獣医師を侮るなかれ。口蹄疫を疑って家畜保健衛生所に精査を依頼したにも関わらず、何を驕ってか無視した。臨床獣医師は診断が困難な症例や治療に反応しないケースでは、ああでもないこうでもないと昼夜を問わず悩む。それがプロだ。それを家畜保健衛生所の所長ら獣医師達は無視し、無頓着であった。このような組織にも頼らなければならない臨床獣医師や畜産農家、動物は不幸だ。自らの無知と非を認めない限り、同じ惨禍は遠くない時期に再現されるであろう。重要な伝染病に関しては、県単位で迅速に確定診断ができる体制にしてもらいたい。どこまで真剣に取り組んでいることやら???。12月22日。

●折しも今月20日、口蹄疫の被害農家などでつくる「口蹄疫の真相を究明する連絡会議」が宮崎県に対して14項目に関する「公開質問状」を提出した。主は「口蹄疫発生前の2010年2月、高鍋町の農場から、口蹄疫疑いの通報があったにも関わらず、県(家畜保健衛生所)がPCR検査を実施しなかったこと」。それほどに確定診断のためのPCR検査は重要なのである。つづく。12月22日。

●遡って3月31日、都農町の水牛農場に家畜保健衛生所の獣医師3名が出向き、暴れる水牛のうち3頭から採血している。42頭の水牛(当時モッツァレラチーズは東京で大人気)を飼う農場からB獣医師に最初の診療依頼があったのは3月26日。当初は風邪として治療していたが、29日には最初の2頭とは別の9頭に熱発、下痢、泌乳量低下の症状が見られたため、B獣医師は何らかの中毒を疑って家畜保健衛生所へ精査依頼し、3月31日に採血。しかし、この時水牛から採血された血液は東京に送られず、口蹄疫の検査は実施されなかった。次に家畜保健衛生所が安愚楽牧場を訪れたのは口蹄疫確認発表の翌日の4月21日で、新たに5頭から採血した。実は、3月31日の血液もこの時まとめて検査された可能性が高く、家畜保健衛生所の報告では3月31日の分も陽性であり、この時点で水牛農場が最初の発症農場と推測された。3月31日から発表の4月20まで、実に20日。A獣医師が「ドキッとして」した日の4月9日からも、実に11日。この間、口蹄疫ウイルスは蔓延したのである。(以上、文藝春秋2010年8月号(pp166-175)「宮崎口蹄疫ルポ 牛はわしらの家族だった」(高山文彦 著))つづく。12月21日。

PCR検査で思い起されるのが「口蹄疫」。2010年4月7日、A獣医師が都農町の繁殖牛農場を往診。最初は治りかけの風邪と仮診断したが、4月9日、上唇の歯茎の根元に直径3mm程の小さな潰瘍をひとつ確認したため「ドキッとして」、家畜保健衛生所に連絡。その日に獣医師が来たが、大したことないだろうと帰る。7日後の4月16日、同じ症状が別の一頭の牛に見られ、17日に家畜保健衛生所の獣医師が来て検体を採取。このサンプルが動物衛生研究所に送付されPCR検査で口蹄疫の「陽性」が確認され、4月20日に明らかにされた要は、A獣医医師は潰瘍を見つけ口蹄疫が頭を過ぎって「ドキッとした」のであり、だからして家畜保健衛生所に応援を依頼したのであるつづく。12月21日。

●犬のレプトスピラ症届出伝染病の一つである。最近、山口大学の力を借りて確定診断した1例を家畜保健衛生所へファックスで報告すると、次の日、血液検査も提出するようにとの電話あり。報告書には雛形があり、それに習って書けば良く、血液検査結果の添付義務はないようである。家畜保健衛生所の担当獣医師に提出の理由を聞くと、回答が曖昧。何を考えているやら知らぬが、必要も無いものを上から目線で指図するのには閉口である。腎不全や肝不全(黄疸)があり、レプトスピラを疑って大学にPCR検査を依頼しているのであって、提出義務の無い書類を求めるとは如何なものであろうか。つづく。12月21日。

「金正日総書記死去」の報を受けて、政府(藤村官房長官)が「哀悼の意を表する」の正式コメント。安全保障会議直後のコメントだ。直感で違和感あり。フセインやビンラディンが死亡した時も同じだったか??? 拉致を主導し、テポドン(ポテドンだったっけ???)を日本列島横断させた張本人である。「弱腰」どころか「ヘなへな腰外交」。混乱・内紛・暴発することなく、民主化してもらいたが、油断してはならない。現地視察中の列車の中で心筋梗塞との報道だが、武田信玄のように死を隠せなかったのか、影武者はいなかったのか・・・ちょいと首を傾げるな。何か起りそうな予感だ。12月19日。

●小笹の銀座復活に感動・歓喜した人物が2人。1人目は、創業者である寿平八郎氏で、「『二種の神器』ともいえる安田画伯揮毫の額と彫刻家・和田金剛による観音像を寺嶋さんに託し、昔の顧客に手書きの挨拶状を出してくれた」(山田五郎氏の「銀座のすし」より、銀座百点p26)。そしてもう1人が岡田周三氏で、板の品書(ネタ書)を手ずから墨書してくれた。この板書は今も威風堂々と観音様の直下に鎮座している。天国から優しく見守っているようだ。愛弟子の銀座出店を誰よりも喜んでくれたのはこの御両人であったのだ。この物語を語る大将は「破顔満笑」であり、聴き入る小生も何だか人事ならず幸福感に浸れた。胃袋のペプシンも大脳辺縁系のエンドルフィンやドーパミンなどの脳内アミンも洪水だった。11時を回り10分足らずのホテルまでの帰路は徒歩。高層ホテルの天高く「皆既月食」のデザート。10日の月は「満月一時朔月の望月」で縁起昇天!!! 12月19日。

●「銀座・小笹寿しの歴史」。現・小笹寿しの大将である寺嶋和平さんは千葉県茂原市の出身で昭和40年、19歳で先代の銀座小笹に入店。入店時の小笹には5人の職人がいて筆頭が岡田周三氏であった。昭和43年、岡田周三氏は小笹が出した原宿の支店を任され、寺嶋和平さんも連座し、寺嶋さんは4年後に横浜・日吉で独立開業。岡田氏は昭和48年に暖簾分けで下北沢・小笹寿しを掲看。平成元年、寺嶋さんの日吉の店が道路拡張で立ち退かされ、寺嶋さんは取り敢えず下北沢の小笹へ一時出戻りして8年の年月が過ぎる。そして、平成7年4月、満を持して寺嶋さんの「銀座・小笹寿し」が13年ぶりに堂々復活したのである。つづく。12月19日。

●銀座8丁目の現在の「小笹寿し」の大将である寺嶋和平さんが話してくれた、岡田周三氏の「紫」(煮切り)以外の頑固な話。「膳つき」(=つけ台=カウンター)の湯呑が邪魔で握りが定位置に差し出せない。すると、岡田氏は「鮨には通り道があるから、湯呑を退けろ」と客に言った。「紫」と「鮨の道」で大抵の一見さんはもう二度と暖簾を潜ることは無かったが、その教示を仰いだ客の中でたまに変わり者が居て再訪する。その時、「頑固が鉢巻」が新たな一見さんに薫陶しているのを観る。こうなれば、見るのでは無く観る方である。周りはニヤニヤしながら「頑固が鉢巻」のパフォーマンスを観劇しているのである。そうだ、感激である。そうして新たな常連が誕生するのであった。つづく。12月18日。

●「・・・頑固が鉢巻しているようなのが岡田周三だと思っていたのだから。・・・」。山口瞳(1926-1995)の「行きつけの店」のp224の行(くだり)。「鉢巻」の歴史は「神話上、アメノウズメ命が天岩戸から天照大神を誘い出す際に額にツタを巻いたこと」(Wikipedia)が起源らしい。今は「精神統一や気合の向上」を狙い、長細い布や紐を頭に巻き付ける。いかに、岡田周三氏が頑固オヤジであったかを表現した名文で、何にでも使えそうだが、「人間良しが鉢巻したような」はちょいと無理か。写真有。12月18日。

先頭へ