●人間がスポーツに感動するのは、そう「美技」だ。人間が求めて止まないオーバーハンドを駆使した投擲力なのだ。昔ギリシャの哲学者・プラトンが上手いことを言っている。それは「理想」。人間にはできる出来ないにしろ、誰しも理想がある(凡人にはできない「現実」があり、現実は「理想」の対義語)。その理想を具現化するにはこれまた有名な「真善美」という難渋な単語に出くわす。簡単には真は「教育」、善は「道徳」、そして美は「芸術」という。スポーツを生業とするもストレス解消の道具とするも、スポーツのルーツと効能を知り、スポーツマンシップに則り(フェア―プレー)、究極の技を生み出す・・・・・ってことだろうか。いいところに(いいタイミングで)今日、元巨人の背番号18の桑田真澄氏が体罰についてNHKや朝日新聞などの取材に応じていた。プロ中のプロフェッショナルの苦言と提言と進言。実体験から発せられる蘊蓄の詰まった言葉はネットでも見れる。体罰は怨みをかいますぜ。そう言えば獣医道だってプロフェッショナルが求められて然り。宿酔(ふつかよい)でアサイチの採血を外すようじゃ・・・罰ならぬ「喝」ものだな。凡人は日日の鍛錬と精進だな。なあ~んだ・・・やはり平凡な〆だな。筆力が上がらない悩み・・・これも平凡、いや(否)これに至っては「バカボン」だな。1月12日。
●ここで語っていることは無謀な仮説、そう俗に言うこじつけに過ぎないかもしれない。オーバーハンドで投擲できる技を持ち合わせているのは地球上で人間だけという。ゴリラやオラン-ウ―タンなどの類人猿にはない芸当だ。チンパンジーのサクラだって無理。サルが人間となり、二足歩行とオーバーハンドで投擲が出来るようになったからこそ効率的な「狩り」が可能となった。オーバーハンドは人間になった瞬間から「刷り込まれた」特性だ。それはいつも進行形で、古代オリンピックでは投槍が正式種目であったし、「イチローの神技」の現在に至る。「刷り込み」の作用でプロ(高校生の美技でも同じ)の見事なプレーを目の当りにすれば特性の本能が擽(くすぐ)られ、条件反射で感動するって仕組みだ。脳裏(大脳辺縁系)に刷り込まれているから仕様が無い(始末におえない)のである。つづく。1月11日。
●投擲力とは物をより遠くへ、より正確に投げる能力のことだ。アウストラロピテクスは「鎖骨が発達し、上腕骨と肩甲骨が可動性に富む球関節で結合してゐるから」、「腕を360度まはせる仕組み」(「月とメロン」文春文庫82ページ)で、石や鎗などをより遠くへより正確に投げる武器を獲得したのが我々人間ってことだ。この強力な武器によって「はじめ人間ギャートルズ」は石槍でマンモスを仕留めたのだ。そしてイチローは(ユンケル皇帝液を飲まずしても)ホームベースからライトフェンス間際のゴミ箱(?)にボールを投げ入れることが可能だし、もっとすごいのはセカンドベースから投げたボールでホームベースに立てたバット4本に連続して命中させる神技をいとも簡単にやりのける。神技といってもイチローだってひとりの進化したアウストラロピテクスなのだ。スポーツも極めれば人を純粋単純に感動させ得る御手本であろう。つづく。※「はじめ人間ギャートルズ」のアニメテレビ放送は1975年前後に放映。※アウルトラロピテクスは「(南の猿の意)南部アフリカ・東部アフリカの第四紀層下部から発見された化石人類の一群。約400万~150万年前に生息した最古の人類・・・・・」(広辞苑)。1月10日。
●「2001年4月11日、アスレチックスの本拠地。3-0とマリナーズのリードでの8回裏、一死一塁。代打ヘルナンデスがライト前ヒット。一塁走者のロングは二塁を蹴って三塁へ。そのときイチローはノー・バウンドで三塁に投げ、アウト。イチローは試合後、『打球が来たから三塁に投げただけ。すごい(great)? すごくなんかありませんよ』と語った」(氏田秀男の「イチロー至上主義」・実業之日本社を丸谷才一が「月とメロン」で引用)。スポーツの意味する大義なんぞは時代時代で様ざまに変遷して来たであろうが、少なくとも現在のプロスポーツで言えることは選手が生みだす審美(=芸術)で超人的な技に観る者が感動されることだ。先の丸谷才一のエッセイで興味ある記述があった。そもそもサルが人間に進化し得た特性についての随想であるが(歴史の教科書では最初の人類であるアウストラロピテクスは①二足歩行、②言語の使用、③火の使用をもってサルと区別されると習ったが)、実は②の「言語の使用」の前に「投擲力」が重要だとするクロスピーの説を支持している。イチローと投擲力・・・・・スポーツが感動を生む理由・・・まだまだ続くが今夜はここまで・・・。つづく。1月9日。
●大阪市の高校で起こった部活監督の体罰に因る主将の自殺。そもそも部活やスポーツは何のために存在するのだろうか・・・・・考えて視るか。まず頭に浮かぶのは身体の鍛練、根性の植付、仲間との協調性の創造、過剰なエネルギーの発散、ストレス解消、心身の一途な打ち込み(精神集中)、プロで飯を喰う為の過程(手段)・・・。Wikipediaによればスポーツの語源はラテン語のdeportareで「ある物を別の場所に運び去る」から転じて「憂いを持ち去る」という語感であり、古フランス語のdesportの「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経ているらしい。我々の時代には、部活でミスをしても、教室で悪ふざけをしていても、宿題を忘れても、場合によっては先生の虫の居所が悪い(単なる不機嫌)だけで「びんた」を食らったし、バットで頭を小突かれ、竹刀で尻を叩かれたり・・・そんな体罰なんて日常茶飯事的でそうは珍しくなかった(流石に女子には軽かったが・・・)。家に帰って親父にでも言おうものなら、その原因を詰問され反対に殴られるのが「落ち」だった。ま~、数十年経った現在でも今で言う「体罰」の一部始終の記憶が甦ると言う事は(それも少しの怨みを伴って)、やはり体罰は良くないことであろう。「運動場10周」や「バケツ持ち10分」や「正座30分」や「床拭き30往復」などの罰(正確には「御仕置」)の方は、それに至った因果関係なんぞ殆ど記憶にないから不思議だ。つづく。1月9日。
●1月6日の診療の合間、写真の「荒起こし」風景を見て、あと2カ月余で震災から丸2年か、などと感慨に耽る。目敏い鷺の図太さにも感心する。土中で冬眠している虫らがトラクターの荒掻きで無理矢理醒まされ鷺の餌となる。啓蟄を待たずしての不運だ。ところで、年があらたまって気になることがある。暮に頂戴した(病院関係は今でも貰うのが結構多い)カレンダーや手帳を調べると昔のように旧暦や月齢など抹殺されていて、省略の甚だしいものは新暦の日付と祝祭日しか記入がない。老人化した親仁も最近では、天空の月を仰ぎ観ては感傷に浸ることがしばしば。歳時記的農作業風景を目の当たりにしてもまた然りだ。例えば今日(1月7日)の旧暦カレンダーには「7赤口(癸酉)旧暦11/26月齢24.8」との記載され、下弦の月まで黄色で賑やかで、なんとも親切ではないか。新暦物なんか、殺風景過ぎて趣ゼロ。居酒屋通いくらいしか用の無い親仁にとっては日付と曜日しかないような物なんぞ、無用の長物そのもの。1月7日。
●昨年も「すしざんまい」が「祝儀鮪」を落札したが、その前数年は「銀座・久兵衛」(今田洋輔社長・2代目)と香港の寿司王と称されるリッキ―・チェン氏(日本では銀座界隈などで「板前寿司」運営に関与)の共同購入であった。後者の場合、購入とは魚河岸(築地)の仲買人(卸し)を介しているという意味。木村氏曰「いつも通りの赤身は128円、中トロは298円、大トロは398円で提供します」。臓物が抜かれた222キロのうち頭や椎骨などがどの程度なのか、つまり歩留まりが何割なのか。通常サイズの鮪ネタの重さは20グラム(正確には17グラムらしいよ)だから、キロ50貫(個)分。キロ百万として単純計算で1貫2万円也。これは赤身、中トロ、大トロ押し並べての概算であるから、元を取る大トロは10万円でも追銭ものかも。まあ~、それにしても「すしざんまい」が落さなかったら(久兵衛や板前寿司であったら)、宣伝代半分とは言え、一貫数万円の大間本マグロを喰わされる破目に陥っていた可能性が高いのだから、ここは木村氏を讃えようではないか。それにしても何かと原発問題で揺れている大間の漁師にとって最高のお年玉だ。素直に万歳、そう「すしばんざい」だ。それにしても×2、今年最初の暗算が「これ」とはねえ~。今度の銀座詣の折には大間の本マグロ(もちろん今回の代物ではないが)を名指しで頼んで100万円喰ってみるか。1月6日。