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今週の親仁ギャグ・2013年6月23日(日)~6月29日(日)

●2013年6月21日付の「週刊朝日」のpp36~39に「あなたの常識は間違っている こんなにある『日本の歴史』の”新発見!”」。「聖徳太子は絶対的な実力者ではなかった!」・・・「源氏と平氏の全面戦争はなかった」・・・「織田信長『長篠の戦い』『鉄砲で勝った』はウソ?」・・・「秀吉は『天下統一』をしていない?」・・・「秀吉の正妻おねと側室・茶々は仲良しだった」、「江戸時代に日本は『鎖国』していなかった」、「ペリーの黒船に脅えて開国したわけではない」など12題。週刊紙ネタとは言え、親仁が既に知っていることも少なくない。最近の政治や経済や外交など様々な品種の講釈師(立花隆の言うマスコミ好きの「評論家」のこと)の宣ふことをそのまま鵜呑みに脳味噌へ叩き込んでいたら歴史の真実や核心は何が何やら分からなくなってしまう。真実はそうたくさんあるものではないのだから。政治家の皆さん、歴史に名を残そうものなら理想と判断力と決断力ですぞ。それに適材適所の人物発見力とその操縦法だな。6月28日。

●戦艦「三笠」は明治35年(1902年)に建造元のイギリスから横須賀港に回航された、「排水量一万五三六二トン、歳最大速力一八ノット、三〇サンチ(センチ)砲四門、一五サンチ砲十四門、八サンチ砲二十門、魚雷発射管四門というフネで世界最大、最強の戦艦である」(勝つ司令部 負ける司令部pp18~19)(この元の文献文章は司馬遼太郎著「坂の上の雲三」pp211によると思われる)。イギリスの造船は「ヴィッカーズ造船所」であり当時の日本は戦艦のほとんどを英国に大枚をはたいて依頼していた。一方の「大和」は、「連合艦隊司令部は、昭和十七年二月十二日から、新しくできあがった戦艦『大和』にうつり、船隊の指導にあたっていた。『大和』は、基準排水量六万四千トン、二十七ノット、四十六サンチ砲九門の世界最大、最強の戦艦である。」(同161~162)。さらに生出氏は「しかしもっとも似ていないのは、東郷司令部は『三笠』に乗り、つねに艦隊の先頭に立って戦ったのにたいして、山本司令部は『大和』に乗り、けっして『大和』で戦おうとはしなかったことである。艦隊の将兵たちは、このような『大和』を『大和ホテル』とか『大和御殿』とよんだ。」。山本五十六が「航空主兵、戦艦無用」論者であったとはいえ、勇猛果敢に最前線で戦おうとはしなかった。それに比べて東郷は黄海開戦の折、三笠が敵の砲弾によって主だったものだけで九十五カ所の破損を受け、一二インチ砲一門を破損し、兵の一名が体をタテに割られるように戦死し、士官以下一八人が一挙にたおれ、・・・・・・交戦一時間後の六時三十分ごろ、艦橋あたりに敵弾が命中し、肉片が飛び、臓腑が流れた・・・時も東郷は島村、秋山とともに艦橋にあり、「東郷は、顔色も変えずに、水平線上の敵陣を診ている。島村参謀長は東郷の身を気づかい、『司令塔に入りましょう』と、何度も言った。艦橋は露天だから砲弾の破片が間断なしに飛びかうのである。司令塔ならば鋼鉄をもってよろわれている。が、東郷はいつの海戦でも艦橋にいて司令塔に入ったことがなかった。このときも、『司令塔は外面(そと)が見にくうてなぁ』といったきりであった。胆力という点では、この小柄な薩摩人は敵将のたれよりもまさっていた。」(坂の上の雲四pp56~57)。つづく。6月28日。

●「東郷平八郎を歴史教科書に載せるべし」という意見(こえ)があるとのこと。右翼の戦争好きの輩かと思ったらどうもそうではないかもしれない。生出寿著「勝つ司令部 負ける司令部」(東郷平八郎と山本五十六。ロシア艦隊に完勝した東郷。アメリカ艦隊に完敗した山本。)に両者の戦争観の違いが比較されて詳しい。旅順艦隊とバルチック艦隊に対して連合艦隊司令長官である東郷平八郎(薩摩藩士。海軍大将・元帥。1847~1934)は自ら正面切って指揮交戦した。東郷が乗艦したのは戦艦である旗艦「三笠」。一方の米国艦隊に合い対峙した太平洋連合艦隊司令長官、山本五十六(1884~1943)は戦艦「武蔵」と「大和」に乗艦し、最前線では無く遠目から「博打」※をしながら作戦命令を出していた。つづく。6月27日。

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