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今週の親仁ギャグ・2013年10月6日(日)~10月12日(土)

今、福島第一原発事故に現場従事している人間の数は約3千という。うち2千人が下請け。2年半前の事故発生当時、伝聞によれば彼らの日当は30万円。下請けにも孫請けもあれば、(一体その言葉自体は存在するのか定かでないが)「曾孫請け」や「玄孫請け」の実態もあるという。想像に、1日や1年の被曝許容線量というものがあるわけだから、作業の従事時間も制限があるのは当然である。つい最近のトラブルは汚染水が流れているパイプの継目を誤って外した結果、7トンもの汚染水(高濃度放射線水)が流出し作業員らもそれを浴びた、という。御粗末だ。原発事故発生当初、剛腕が東京からの避難をしたか考えたか・・・という記事が週刊誌に載った。3千から下請けの2千人を差し引いたら1千人が東電関係者という計算になる。東電の幹部や政治家、原子力規制委員会メンバーは遠く東京から指揮指示している。この状況は日露戦争の激戦地である「二〇三高地」を想起させる。乃木希典(1849-1912)大将率いる大日本帝国陸軍の突撃兵は二〇三高地要塞に陣するロシア軍の機銃にバタバタと斃れ、死骸の山が築かれた。乃木大将は遥か後方よりそれを遠望し、幾たびも同じ突撃命令を下し、空前絶後の多くの死傷兵を出した。誰も丸裸で鉄砲の弾に向いたくないし、放射能への暴露も御免だ。果たして2千人の作業員はどこまで作業技術を修練しているのであろうか。もっと東電と国の関係が直接現場入りすべきであろう。卑怯者(非国民)の謗りも免れまい。テレビの画面を見る限り、地下水対策の作業(凍土壁の構築など・凍土壁の完成には2年の長期を要するという)も「鍬一つ」入れられてないようだ。「原発は、人智では制御不可能」であるから「原発ゼロ」をうたった小泉純一郎・元首相。消費税アップも原発問題に比したら随分と小さい。原発事故は正に「戦時下」であろう。正直な情報公開が責務だ。10月10日。

●「土下座」が横行し流行っている。ひと昔は会社や事業者の不祥事や事件がらみでの最大級の謝罪法かと思っていたら、このところの土下座は個人レベルのミスや怨みつらみ、トラブルでやらされる。そこで想起されるのが「韓信の股くぐり」だ。Wikipediaによれば、「韓信は町の少年に『お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ』と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、『恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ』と冷静に判断していたのである。この出来事は韓信の股くぐりとして知られることになる。」。韓信(~前196)は初漢の武将で漢の三傑のひとり。青年時は「脳無し」とののしられたが、後に大将軍に進み、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を孤立させて天下を定めた・・・人物である。土下座を安上がりのパフォーマンスとするか、人生最悪の屈辱と感じるか、人それぞれだが自分ではやりたくもないし、やらさたくもない行為だ。細事での「土下座」や「股くぐり」を許容する「大らかさ(度量)」も一面必要かも知れない。それを糧に人生の「倍返し」「百倍返し」の原動力にもなり得る。ところで「土下座」というとまず大名行列を想起するが、これは意外や日本独自の礼式のひとつであり、「『魏志倭人伝』には邪馬台国の風習として、平民が貴人と道端で出会うと、『道端で平伏して拍手を打つ』との記載があり、古くかの日本の習慣であったと思われる。古墳時代の埴輪の中には平伏し、土下座をしているようなものも見受けられる。。」(Wikipedia)ということだ。とまれ、土下座を強要して一生怨みを買うことは忍びないことこの上ない。10月9日。

●人通りも疎(まば)らな日曜の夜の「ニシタチ」。今回の「バラバラ死体遺棄事件」でニシタチのネオンがテレビで流れる(バンキシャ)。自然と居酒屋の大将に事件の話を聞く。今や「中央通りの典座」の大将が容疑者達の働いていた店を知らない筈はない。「マスコミで騒がれると客脚が遠のく」、という切実な困惑。この辺鄙(へんぴ)な小都会で起こった「バラバラ事件」。男だけでなく女も加担した可能性がある。他人を危(あや=殺)めて、さらにそれをバラバラに切り裂く。ふと孔子の「身体髪膚(しんたいはつふ)、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」(孝経)が浮かぶ。ましておや、他人の子の身体髪膚。また、「父母は唯だ其の疾(やまい)を之れ憂う」(論語)。どこでどう間違ったか、心の疾。「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」(吉田松陰辞世の句)。お互いの彼らの親はどうしているだろうに。10月7日。

「破獄」にこだわるが、白鳥由栄受刑者は26年間の服役中4回脱獄し、累計逃亡年数はなんと3年。最後の府中刑務所では模範囚となり、1961年仮釈放となって1979年に心筋梗塞で他界。享年72歳であった。模範囚になりえたのは「鈴江」府中刑務所所長の計らいに依るもので、出所後は山谷で日雇い労働し、骨身を惜しまず働いたので特定の建設会社から執拗に入社を請われたが、自由の身を望んで固辞した。9月29日、時代の闇を暴いたノンフィクション作家で”毎日、最低でも3人の取材相手と会う”という「取材の鬼」こと、山崎豊子氏が逝った。今週も週刊新潮で「約束の海」(第7回)が連載されている。死して、尚、筆を絶たず。吉村昭は「記録文学」の巨匠。突撃取材には想像を絶する苦悩を伴うのであろうが、後を追う若い作家がそれを遠巻きに逃避してはならない。先輩や歴史に学ぶところは大きい。時代の腐敗を斬ることも作家の大きな使命のひとつだ。「破獄」は脱獄法などでWikipediaと異なるが、親仁は吉村氏の現場主義を尊重したい。「破獄」は白鳥受刑者に親身で接した「鈴江」氏の取材に依るところが大きいからだ。白鳥受刑者が警察の取り調べで嘘の証言をした可能性もある。親仁が先週から「破獄」にこだわるのは「今も国難」を考えてのことだ。10月6日。

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