●「GoToマップトラベル(源義朝編)」
▼GoToトラベルが盛んなようですが、低温と乾燥に強いウイルスを相手にどこまで立ち向かえるか・・・・・・「左手で右耳に掛けてあるマスクのゴムを外し、右手で箸を持って料理を口に運ぶ」、なんちゃってやたらややこしくないかい・・・・・・板山葵(板わさ)におでんに鰹のたたきに秋刀魚焼に焼豚足に手巻に・・・・・・いったい何回マスクの着け外しをしたらよいのでしょうか? おまけに吾輩なんぞは左党ですからね・・・・・・左手で岩井のロックをもち、左に垂れ下がったマスク越しにグラスを運ぶんですぞ。そうですな、吾輩なんかは何百回、その動作を繰り返さなければならないのでしょうか? 吾輩の場合は、まずは岩井のストレートをグイっと行きますから10回もすればほろ酔いですからね・・・・・・学者さんの言うようにゃいきません。
金之助「またまた主人先生は地図帳を4冊も並べていますが、例のやつにゃん?」
主人先生「そうなんだよな、少しは居酒屋通いを減らさんとな。コロナ前は3時間も4時間も居座っていたがな、今は1時間半でお迎えがくるからな。そして寒くなってきたんで時間だけじゃなくて、居酒屋通いの回数も減らさんとな。回数と時間が大事じゃな。その例のGoToマップトラベルじゃがな、今回は源義朝の敗走ルートと頼朝の伊豆での行動ルートじゃな。まずは義朝の敗走ルートじゃがな、その前に1156年、保元の乱で義朝は平清盛と組んで何と実父の源為義ら一族を斬り、その3年後の1159年の平治の乱で今度は清盛と戦い、敗れて都落ちしたのじゃ」
金之助「それはそれは古い昔のことでにゃん? それがどうして今に分かるでにゃん?」
主人先生「グッドクエスチョンじゃなあ。それはな、鎌倉時代ともなればいろんな書物が残されておるんじゃ。日本(邪馬台国)の事が歴史書物にはじめて現れたのが魏志倭人伝(中国の魏の史書『魏志』の『東夷』)であり、自前では『日本書紀』じゃな。鎌倉時代で著名なのが『吾妻鏡』であり、その前の平家の世となると琵琶法師の語りで有名な『平家物語』じゃな。そして鎌倉の後の室町となると『太平記』、信長は『信長公記』、秀吉は『太閤記』と云う具合じゃな。近世では、新選組は子母澤寛の『新選組始末記』じゃしな、坂本龍馬は『汗血千里の駒』という具合で錚々たる顔ぶれじゃ」
金之助「もしかして主人先生は全部を読破したってことはないにゃん?」
主人先生「そりゃ無理じゃ、現代語訳が出回っているがの、何せ元が大作じゃからの。引退後でもない限り時間がないの。じゃが吾輩は司馬さんや池波さん、そして山岡荘八さんの小説を読んでいるから大まかの事は知っているおるつもりじゃがな。平安から鎌倉へ、鎌倉から室町へ、戦国時代、幕末という大きな時代の変革期はかなり苦労して調べないと概略さえも掴めないからな。飽きが来ないようにな、どうしても歴史小説任せになるんじゃ」
金之助「それはそうと肝心の義朝の敗走ルートはどうなったんでにゃん?」
主人先生「流石は猫じゃな、執念深いわい。まずはな都の洛陽七口はな清盛の手が手厚く回っていてな、大原口を避けて竜華越えの間道を近江へ目指したのじゃ。まずは賀茂川ぞいに北上し、八瀬と通って北比良山の南から竜華越えを目指したのじゃ。ざっくり云うと比叡山・延暦寺を超え堅田の浦へ出て琵琶湖へ、それから船で瀬田へ、それからは野洲郡の篠原堤→そして不破の関を避けるため小野宿から街道を南に逸れ→美濃(大垣)の青墓宿(大炊の長者宅)→揖斐川下り→(伊勢湾)→知多半島の内海(尾張の野間の豪族、長田ノ荘司忠致宅)→この長田忠致親子の裏切りで頼朝殺されるんじゃ。」
金之助「それじゃ頼朝も父、義朝と同じ運命じゃないですにゃん?」
主人先生「そうはいかん、頼朝が死んだらいざ鎌倉もなにもあったもんじゃないからな。頼朝は義朝が野洲の篠原堤に至る前に一行とはひとり逸(はぐ)れていたんじゃな。これが実は不幸じゃなくて幸じゃったということじゃ。平家にとってはとんだ歴史のいたずらってことになるな」
つづく。11月14日。