●安倍ちゃんの親父、安倍晋太郎(1024-1991)は元首相、岸信介の娘(洋子)婿である。岸信介元首相は日米安全保障条約が日本に不利なものとして、条約改正などに尽力した。麻生太郎副総理の祖父、吉田茂元首相が締結したサンフランシスコ条約にも不条理を抱いていたという。要は、祖父がなしえなかった日米不条理条約の改定を狙い、集団的自衛権をしてアメリカと対等な位置に立とうと目論んでいる。決して親米派ではないどころか、その逆である。いわゆる攘夷外交を展開しているとういことだ。執拗な「靖国参拝」と「中韓との対立」は司馬遼太郎氏の「宗教的攘夷思想」そのものではないか。つづく。2月15日。
●「この神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観となり、昭和右翼や、陸軍正規将校の精神的支柱となり、おびただしい盲信者を生んだ。たしかにこの宗教的攘夷論は幕末を動かしたエネルギーではあったが、しかし、ここに奇妙なことがある。攘夷論者のなかには、そういう宗教色をもたない一群があった。長州の桂小五郎、薩摩の大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、そして坂本竜馬である。宗教的攘夷論者は、桜田門外で井伊大老を殺すなど、維新のエネルギーにはなったが、維新政権はついにかれらの手ににぎることはできなかった。しかしその狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺たる荒廃におとし入れた。余談から余談につづくが、大東亜戦争は世界史最大の怪事件であろう。常識で考えても敗北とわかっているこの戦さを、なぜ陸軍軍閥はおこしたか。それは、未開、盲信、土臭のつよいこの宗教的攘夷思想が、維新の指導的志士にはねのけられたため、昭和になって無智な軍人の頭脳のなかで息をふきかえし、それがおどろくべきことに「革命思想」の皮をかぶって軍部をうごかし、ついに数百万の国民を死に追いやった。昭和の政治史は、幕末史よりもはるかに愚劣で、蒙昧であったといえる。」(司馬遼太郎「竜馬がゆく三」pp198-199)。つづく。2月15日。
●聴こえているか否かの検査法に、聴覚脳幹誘発電位(auditory brainstem responses, ABR)(聴覚誘発反応)というのがある。音刺激を加え、その後およそ10ms以内に5~7個の陽性頂点を示す聴覚誘発電位のことをいう。簡単にいうと、音刺激を加えその反応を脳波として捉えるもの。聴力障害の有無の判定、脳幹部病巣の部位診断、脳死の判定、手術中のモニタリングなどに利用される。Ⅰ聴神経、Ⅱ蝸牛神経核、Ⅲ上オリーブ核(橋)、Ⅳ外側毛体核(橋)、Ⅴ下丘(中脳)、Ⅵ 内側膝状体(視床)、Ⅶ聴放線(視床皮質)の波形が得られ、速度や波形から異常が分かるという理屈だ。犬猫でも検査可能である。障害者手帳を発行する際には科学的な裏付けが必須ということだ。2月13日。
●-聞こえぬ。-と、竜馬は大いそぎで手をふり、筆でものを書く手真似をした。筆と紙で、筆談をしようというのである。「ははあ、耳が聞こえぬのか」・・・-恥ずかしながら無筆にて、漢字(まな)が読めぬ。かなで書いて賜(たも)れ。-・・・-できん、まことの、ろうしゃ(聾者)なりや。-・・・桑名にて剣術試合をせしところ、耳袋つぶれ、耳鳴りやまず、音はきこゆるも、言葉を分別せず。-貴殿、京の堂上三条内大臣様の御家来水原播磨介と道中なしおる体に見受けられるが、いかなるつながりなるや。–他人なり。–他人とは、いかなることぞ。–親子親族にあらざる意なり-竜馬は愚弄している。・・・・・そのとき、二人の同心が腰をぬかすほどおどろいたのは、竜馬がふりかえりざま、「やあ、わしに命ずるか」と大喝したのである。・・・「お、お手前、お耳がきこえるではないか」「たったいま、癒(なお)った」・・・(司馬遼太郎「竜馬がゆく二」pp112-116)。どこかの国の似非(えせ)作曲家と竜馬を一緒くたにしたら、甚だ竜馬に非礼だが、その気になれば「然もありなん」的な猿芝居哉。案の上、似非作曲家は「最近すこし聴こえるようになった」の弁解弁明。天下国家のための愚弄は歓迎だが、個人的な名声や金稼ぎのために国家国民を欺くのはけしからん。近親者(親)は彼が聾者でないことを知っていたという。本当なら同罪。2月12日。
●殿の敗因を親仁なりに分析してみるか。先祖で細川忠興の父幽斎(1534-1610)は武芸百般に飽き足らず和歌や茶道などを嗜む教養(文化)人でもあった。その血筋で殿も陶芸家として名を挙げた。突如、総理の座を退いて20年、東京を、日本の行く末をどの程度に憂えていたのか。片や安倍ちゃんは首相浪人中、いつぞや再起を果たしたら「右傾国家」にしてやろうと強(したた)かにも頑徹をもってその軍略を練っていた。殿は、20年間、自身が首相や東京都知事に返り咲いた時の「夢・施策」なんぞは仮初(かりそめ)にも考えていなかった・・・のであろう。それが、告示前1週間の「沈黙」である。出陣が出遅れ、布陣もなってなかった。家康に本多正信(1538-1616)、三成に島左近(1540?-1600?)、秀吉に黒田官兵衛(1546-1604)と竹中半兵衛(1544?-1579)・・・・・聞くところでは、陣中には参謀の取替という内紛もあったとか。後見人の小泉純一郎氏の敗陣の弁は「いい経験になった」・・・殿を「当て馬」にするとは不届き者然り。千利休(1522-1591)にしても古田織部(1543-1615)にしても細川護熙にしても、御三方の茶人・陶芸家とも智略に乏しく政治家には不向きなようだ。忠興(1563-1645、豊前・豊後)とガラシャ(1563-1600、明智光秀の娘で名を珠(玉))のような”我武者ら”さが4百年の血脈の流れで薄れたのであろう・・・のが悔やまれる。2月11日。
●9日20時30分、早や東京都知事選での「殿の敗北宣言」。まあ、東京人の「おつむ」はそんなもん(その程度)だろう。殿の背後に「桶狭間」の大書。桶狭間は1560年、織田信長が今川義元を奇襲して敗北させた戦い。古来より、戦は「多勢に無勢」であり、敢えて書にして託したのは自身を信長に肖りたかったのであろうか。(信長は寡勢でありながら義元の首を獲った桶狭間以後、そのすべての戦で寡勢で多勢に挑むことはなかった。中国では三国志の時代、蜀の諸葛亮孔明はよく寡勢で多勢を負かしたが・・・)。とまれ、平成の殿の出陣は「年寄の冷や水」に非ず。若者に負けない生きざま、殊に国を憂い想う気持ちはわれわれ五十、六十の「鼻たれ小僧」の愛国心を大きく鼓舞してくれた。殿に習って多勢の年金受給者が世の鼻たれを叱咤激励して欲しいものだ。(殿の「桶狭間」の書に関する実際の「想い」は「時代は今がターニングポイン」だそうだが・・・)。2月9日。