●ウクライナ・クリミアの政治情勢は対岸の火事ではないのを、安倍ちゃんはどれだけ認識しているのであろうか。終戦間際の当時のソ連が日本にした仕打ちを克明に想起する必要がある。ロシアの「エネルギー」と「北方領土」は純粋な「鞭と飴」で「明日は我が身」。毅然とした対応が求められる重大局面である。2010年11月に当時のドミートリー・メドヴェージェフ大統領が国後島を訪問した直後にもかかわらず「ゆめ」を抱いてのこのことクレムリンを訪問するような外交じゃ相手(ロシア)に軽侮愚弄されてもしかたあるまい(この稚拙な外交レベルを虎視して韓国の前大統領も竹島を訪問)。つづく。3月7日。
●対ロシア外交に意義あり。2012年、当時の野田佳彦首相は玄葉光一郎外相のロシア訪問に合わせ、プーチン大統領に秋田犬を寄贈した。プーチン大統領が命名主のその名は「ゆめ」。秋田県は「尻尾を振りながら咬む」犬種。ウクライナ情勢では間違いのない外交をするように!!! 間違っても下手に出ることのないように!!! つづく。3月7日。
●旧暦とは月齢(月相)周期であるから、季節と直接関連のある太陽歴の方が実生活には好都合ということだ。明治以前の人は時計を(殿様格以外は・・・竜馬はもっていたが)携帯していなかったから天を仰いでお月さまの満ち欠けで日にちを知ることが簡単便利であったということだ。両者の日差は約30~50日。そこで「竜馬がゆく」にもどるが元号と旧暦の日時で時が進むので・・・「事件事変」の順序が混雑してこんがらがる・・・のが堪え難い。さらに、竜馬の命日(誕生日も同じ旧暦11月15日)である「竜馬祭」は新暦なら本来12月20日。その日、京に雪が舞っていたかどうか・・・それこそ季節感の大いなる差異がある。忠臣蔵然り。本能寺の変も梅雨に入っていたか否か・・・小説の中に入り込むと・・・風景背景の差は重要な要因だ。忠臣蔵でも雪がつもりつもっているかいなかは(映画では舞台の吉良邸は真っ白だが)・・・作品の重厚味を明らかに増している。天下の公営放送はじめ、時代ものに限らず歴史番組や記事では旧暦(元号を含む)と新暦を併記してもらいたい・・・ということだ。小説では自分で年表をつくります・・・以上。それにしても・・・太陽はいつ見ても満丸で、しかも眩しくて目を向けられないが・・・月は形を変え「兎が餅を搗いているようで」いくら眺めても飽きない。奈良平安の古代から(それ以上前から)月を愛で風情や郷愁を味わってきた「日本人の歴史」がある。「道徳」教育では是非、「旧暦」にページを割いてもらいたい。宜しく、安倍ちゃん!!! 完。3月4日。
●これまた失敬!!! 今年は(も?)3年に一度の旧暦の閏年であった。10月がそれだ。旧暦の9月が重複される。2014年10月23日が旧暦の9月30日で、翌日の2014年10月24日が旧暦の9月1日なのだ。親仁の誕生日の10月30日は旧暦では9月7日なのだ。だから、平成26年10月24日以後の1カ月は暦の上で53日の差が生じるのである。朝からの問題は解決した・・・昼寝返上の成果だが。写真有。つづく。3月3日。
●旧暦が太陽暦と約50日も違えば、いちばん困るのがお百姓さんだ。そこで実際はどうであったかというと・・・「江戸時代に使っていた、いわゆる旧暦では一年は354日、閏月のある年は384日と年によってまちまちでした。そして季節の移り変わりに大きな齟齬が出ないように何年かに一回閏月をいれて一年13ヶ月にして調整しました。たとえば毎年同じ時期に同じ作業をしなければならない農業関係者には、このような暦は不便ですよね。ところがよくしたもので旧暦では二十四節季(春分、秋分、夏至、冬至など)や雑節(八十八夜、二百十日など)が記されていまして、季節の変動はこちらで把握できる仕組みになってました。」(これはネットのパクリであります、失敬)・・・ということだ。つづく。3月3日。
●繰り返すが、竜馬が生まれたのは天保6年11月15日で、旧暦では1835年11月15日。これは新暦では1836年1月3日。何故か50日近い差がある。では、「忠臣蔵」の赤穂四十七士の討ち入りの日時や如何に・・・というと、本所・吉良邸に斬りこんだその決行日は元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明である。ここでも同様な差がある。あくまでも旧暦は日本独自の暦であり、当時の閏年調整がどうであったか・・・親仁のキャパでは今のところ無理かもしれないが・・・挫けずに調べよう。つづく。3月3日。
●広辞苑の閏年は「(『潤』と書き誤ったところからの訓)季節と暦月とを調節するため、平年より余分にもうけた暦日・暦月。地球が太陽を1周するのは365日5時48分46秒だから、その端数を積んで、太陽暦では4年に1回、2月の日数を29日とし、太陰暦では平均を354日と定めているから、適当な割合で1年を13ヵ月とする。」となる。実際の旧暦では月齢(約29.53日)を考慮した月の日数を29日と30日を交互とする12カ月が1年と規定されている。これだと年に11日のズレが生じるため、約3年に1回の割合で閏年を設けて調整する仕組みである。そうはいっても天体の摂理にそって人間がつくったのが暦である。生活の利便性のものであって天体(宇宙)の厳密な規則性に畏敬するばかりだ。(地球と月の平均距離は約38万4000キロで、地球と太陽との平均距離は1億5000万キロ)。つづく。雛祭りの、3月3日。
●地球の衛星である月の規則的な満ち(満)欠け(朔)を利用したのが旧暦。一方の新暦は太陽とそれを中心として公転する地球の規則的な関係を活用している。衛星である地球新暦の1年は平年365日で、約4年に1回の閏年に閏日が入って366日になる(4年に1回、2月が29日)。旧暦の1年は平年約354日で、約3年に1回(19年に7回)の閏年は閏月が入って約384日になる。旧暦は月の満ち欠け(朔望)の周期(約29.53日)にもとづいて1ヶ月30日(大の月)か29日(小の月)で、1年は約354日(約29.53日×12ヶ月)であり、約365日周期の太陽の位置にもとづく季節との対応は毎年約11日づつずれる。このズレを調整するのが、約3年に1回(19年に7回)の閏月である。朔望月:29.530589日×235月=6939.688415日。太陽年:365.242194日×19年=6939.601686日。このように月の満ち欠け(朔望)235回分(12×19+7)の長さと太陽の位置による19年の長さがほぼ同じになるため、19年に7回の閏月によって、旧暦の日付と季節との対応のズレが解消される。実際の旧暦の閏月の調整は、写真(新暦2017年6月)のように旧暦では5月を2回繰り返す。つづく。3月3日。
●ウクライナ情勢を遠観するに隣国と無闇に不仲になることは歴然不利益だが、同盟国というのもそれ以上に重要だな。意固地な一匹狼ってのがいかん。国連の権威も常任理事国の横暴には無いも同然。これもどうにかせんといかん。3月3日。
●竜馬の誕生日である天保6年11月15日は西暦の(=新暦=太陽暦)1836年1月3日。広辞苑では竜馬の生きた年は1835~1867とあるから、1835年は旧暦(=太陰暦)を用いていることになる。数え年(生れた年を1歳とし、以後正月になると一歳を加えて数える年齢)と満では年齢が変ってくる。竜馬の場合、旧暦では誕生日と命日が11月15日で覚えやすいが、新暦では大分差が生じる。こういう例は毎度のことだが・・・。では旧暦と新暦の違いは・・・? 親仁には、宵の口のころのニシタチに向う前、家を出て月を愛でる習慣がある。月の満ち欠けを見れば旧暦での大まかな「日」が分る。慣れれば・・・というか多少勉強して天体を頭に入れれば(こりゃ大袈裟だ)本能の世界である。つづく。3月2日。
●広辞苑には「年につける称号。中国で、皇帝が時をも支配するという思想から、漢の武帝の時(西暦紀元前140年)に『建元』と号したのに始まる。日本では645年に『大化』と号したのが最初。天皇が制定権をもち、古くは辛酉・甲子の年のほか、即位(代始)・祥瑞・災異その他の理由によってしばしば改めたが、明治以後は1世1元となり、1979年公布の元号法も、皇位の継承があった場合に限り改めると規定。元号(げんごう)。」とある。確かに明治天皇の即位以後は「1世1号」(明治→大正→昭和→平成)。そこで、竜馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)に生れ、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に死去。天保は仁孝天皇時代の1831年1月23日(文政13年12月10日)~1845年1月9日(天保15年12月2日)。仁孝天皇の御世では即位した「文政」(文化15年4月22日=1818年5月26日~文政13年12月10日=1831年1月23日)と「天保」(「江戸の大火や京都の地震などによる災異改元」)、それに「弘化」(天保15年12月2日=1845年1月9日~弘化5年2月28日=1848年4月1日、「江戸城火災などの災異」による改元)の3元。そして「嘉永」(弘化5年2月28日=1848年4月1日~嘉永7年11月27日=1855年1月15日、「孝明天皇即位」による改元)→「安政」(1855年1月15日~1860年4月8日、「内裏炎上、安政の大地震、黒船来航などの災異」による改元)→「万延」(1860年4月8日~1861年3月29日、「江戸城火災や桜田門外の変などの災異」による改元)→「文久」(1861年」3月29日~1864年3月27日、「辛酉革命」による改元)→「元治」(1864年3月27日~1865年5月1日、「甲子革命」による改元)→「慶応」(1865年5月1日~1868年10月28日、「明治天皇即位」・「禁門の変や社会不安などの災異」による改元)。特に幕末真只中の孝明天皇在位中の改元は甚だしく17年間に5つの年号。つづく。3月2日。