●「桂小五郎、木戸孝允という人は、生えぬきの剣客であった。が、かれはその剣を生涯殺人につかったことがない。というより、かれが江戸の斎藤弥九郎道場の塾頭までつとめたほどの技達者だったが、かれが剣を学んで知った最大の真実は、剣をもって襲いかかってくる者に対しては、逃げるしか方法がないということであった。桂はこののち劇的な危難に何度も遭うが、そのつどその用心ぶかさと、その痛烈なまでの機敏さが、かれ自身を救った。このため、桂はこのあとの長州の政治的窮迫期に幕吏にしつこく探索されながらついに明治まで生ききった。」(「花神・中巻」司馬遼太郎著・新潮文庫・p51)。親仁の記憶でも竜馬が刀で殺人したことはなかった。しつこいが「逃げるに如かず」の譚。災害こそこの教訓。8月29日。
●「逃げるに如かず」の譚。1866年3月7日、竜馬は京都上京区の小松帯刀邸でいわゆる「薩長同盟」を斡旋して結ばせた。その2日後、竜馬は京都伏見の「寺田屋」で幕吏に襲撃された。1866年3月9日の、世にいう「寺田屋騒動」である。この時竜馬は自身の佩刀を使わず、高杉晋作からもらった拳銃(スミス&ウエッソン社製・第Ⅱ型アーミーの32口径6連式ピストル・全長25㎝)で応戦し、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。がしかし、両手親指を負傷し弾をつめられずに逃げ、九死に一生を得た。要は、竜馬は多勢から襲撃された場合、刀ではどうしようもないことを知っていた・・・からピストルを日頃から持っていた。そのピストルが使えないのなら「逃げるに如かず」なのである。つづく。8月28日。
●甲子園の譚。(3対4で負けている)9回表一死1、2塁、三重の中村好治監督は、代打として背番号13番で甲子園初出番の2年生選手を代打起用ました。代えられた2番打者は好調で、この試合でも1安打。結果は三振で、次打者は内野ゴロで万事休す。試合後のインタビューで敗者の将、中村監督の弁は「ベンチに入っている選手を全員、使うことができてよかった。選手だけではなくて、コーチや監督もふくめてみんなが成長できた大会だった・・・・・・」。一方の桐蔭の西谷浩一監督はひとりの選手交代もなかった。劇場は甲子園の決勝戦。勝負にこだわり勝負を知りつくした名将とそうでない監督。高校野球の頂点は96回の歴史の甲子園での優勝。舞台の巨大さから考えれば「代打」は戦術ミス。「野球は5割が選手力、3割が監督の力(采配)、残る2割が時の運」(松永怜一語録)という。選手と監督で8割。監督業の鉄則に背いたら勝利は逃げよう。中村監督は「1954年、大阪府生まれ。浪商(現・大体大浪商)、専修大では一塁手としてプレーし、大学卒業後は神戸製鋼などで活躍。2002年夏に日章学園(宮崎)を率いて甲子園出場。三重中京大を経て14年から三重の監督。三重中京大では、則本昴大(楽天)を指導。甲子園では『ベスト8以上が目標』と話す。」(週刊朝日「甲子園」より)。三重は3季連続の甲子園出場で秋、春と2季連続で東海大会を制覇。新チームの結成後は、全国大会の神宮、選抜以外では公式戦無敗の強豪。今年4月の監督交代の裏事情は詮索しない事にするが、この時点での交代が微妙に影響しているのか。それにしても準優勝は立派な功労である。※2002年は興誠に9対8で敗れたが22安打を放って負けた「最多安打敗戦記録」の珍記録保持校、保持監督でもある。8月26日。