●外交の生々しさ。ベトナム戦争(1960~1975)中の1972年2月、アメリカのニクソン(37代大統領・1913~1994)大統領は訪中(「ニクソンショック」という)して毛沢東(1893~1976)主席と会談し、共同声明を発表し、1979年の国交正常化(カ―タ―大統領と鄧小平の交渉で成立)の下地をつくった。冷戦下、しかもベトナム戦争の最中での訪問を中国はなぜ受け入れたのか・・・それは珍宝島(ロシア名ダマンスキー島)をめぐる中ソの国境紛争に関係する。当時のソ連は12個の宇宙衛星を飛ばして中国の行動を監視していた。中国はアメリカに衛星画像を見せられ、アメリカが中国にそのノウハウを提供することでニクソン訪中を受けたのである。もうひとつ、朝鮮戦争(1950年6月25日~53年7月9千)時、毛沢東はソ連から水爆の製造技術提供を条件に朝鮮戦争に加担したという。(石原慎太郎著「天才」・幻冬舎・pp92~93参考)。最懸案事項である拉致被害者帰国問題で日本政府は北朝鮮にどのような条件を提示しているのであろうか。アメリカ次期大統領共和党候補のトランプ氏が日本が北朝鮮への対抗処置として核の保有を容認する発言をした。同時にさらなる在日米軍への負担増をしなければ日本からの撤退も言及している。アメリカが日本の核保有を容認するなら「諾」として受けるべきであろう。日本の核保有は世界から総スカンを余儀なくされ、貿易停止は必至と思っていたが、アメリカが容認すれば話は180度違ってくる。アメリカの軍事の、そして核の傘に頼らない自前の防衛戦略が重要ということだ。GDPに占める防衛費が今の倍の10兆円(対GDP比2%)になってもだ。4月1日。
●「このころには配給された少量の玄米を酒瓶などに入れて慣れない手つきで脱穀し、麦や芋を混ぜて食べるようになる。」。正解は、「脱穀」が間違いで正しくは「精米」。脱穀とは「殻粒を穂から取り離すこと(籾にすること)」であり、精米は「(籾から籾殻を取った)玄米をついて白くすること」である。稲は刈った後、天日に干し(はぜかけ米)、脱穀し、籾摺りで玄米とし、精米で(精)白米となる。私が小学低学年までは、祖父が馬を飼っており、耕し(田起こし・代掻き)は馬が活躍してました。耕運機での田起しは小学校高学年、稲刈機(バインダー)は中学生の時でした。脱穀機は脚踏み式があり、機械の脱穀機や籾すり機は村(大字)に数台しかない時代でした。稲刈りはもちろん稲架けから脱穀などたいそう手伝わされました。われわれの幼少時代はそういう頃です。「脱穀」ではなく「精米」ですよね・・・と出版社に電話したら、数日後、次版から訂正します・・・との返事がきました。うっかりミスでしょうが、なかなか実体験していないと映像として頭にないから、こういうことが起るのでしょう。あの時代のことを思い起こすに、食べ物は一粒も残さずに先祖を敬って食うべしということでしょう。3月31日。
●余談・・・その2。最近読んだ「大橋鎭子と花森安治」(中経の文庫・KADOKAWAの歴史読本編集部編・青山誠著)のなかに・・・「戦前、朝食はパンやコーヒー、夕食にはハンバーグといったモダンで洋風な生活を楽しんでいた都市部のごく限られたホワイトカラーの家庭でも、このころには配給された少量の玄米を酒瓶などに入れて慣れない手つきで脱穀し、麦や芋を混ぜて食べるようになる。」(p81)と書いてあるのですが・・・間違いがあります。さてどこでしょう? つづく。3月30日。
●(写真から)承前・・・土筆とスギナの関係を知らない若者と、夏目漱石(1867~1916)と稲の苗の話。「(略)これも四十位になる東京の女に余が筍の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さういふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者(ママ)が同じものであるといふ事を知らなかつたのである。(略)余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう。そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。その時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦を弁ぜざる事は往云々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居をせねばならぬ。(五月三十日)」(正岡子規著「墨汁一滴」・岩波文庫・p133)。漱石にして米が稲の苗から出来ることを知らなかったという譚である。感想は人それぞれでしょうか。正岡子規(1867~1902)は最後の7年間は結核を患い「病床六尺」でした。その晩年の作品の一つが「墨汁一滴」です。明治30年代のはじめということでしょうか。つづく。3月30日。
●26日、北海道新幹線が開業し鹿児島中央と新函館北斗間、2150キロがつながった。鹿児島中央から「さくら」に乗って、博多で「のぞみ」、東京から「はやぶさ」にそれぞれ乗り換えれば、その所要時間は最短で約11時間半。料金は4万8530円(指定席・通常期)。飛行機はどうかというと、羽田乗り換えで、鹿児島から札幌まで乗り継ぎを合わせて計3時間35分、料金は5万980円(全日空の通常期)(27日毎日新聞30面)。というのはスタッフとの会話で、鹿児島中央駅から新幹線に乗って上野恩賜公園へ花見に行くのにはたったの500mくらい歩けば済むだろう・・・と言ったら・・・それはまことですかの疑問符・・・。実際に上野駅と恩賜公園は目と鼻の先だから、東京へ花見に行くのもずいぶんと楽なもんですね。ところで江戸時代の交通事情はどうであったのか、興味がありますね。忠臣蔵にその例があります。元禄14年の赤穂事件の折、それを赤穂に急報すべく、原惣右衛門と大石瀬左衛門が江戸を早駕籠で出発したのですが、その行程は155里。通常なら半月以上かかるところを、この早駕籠はなんと4日半でやりきったそうです。駕籠の乗客は中腰で上から吊るした紐を手に持って体のバランスを取らなくちゃならんので到着した時は半死半生の状態だったのです。河井継之助も幕末の鳥羽伏見の戦い(将軍慶喜が大坂城から海路、江戸へ逃走)の直後の江戸への帰路、遠州掛川から江戸までの55里20丁を駕籠に乗っています。歩けば6日はかかるのを2日で着いたそうです。これも命懸けだったことでしょう。(以上、司馬遼太郎「峠・中」p362を参考)。時間があれば新幹線の乗り継ぎで上野と言わず、弘前あたりに足を伸ばしてちょっこら高級な料亭弁当で花見をしてみたいですな・・・もちろん、夜は太田和彦の「百名居酒屋」でしょうが・・・。3月29日。
●遺書で最近話題をよんだのは川島なおみさんや田中好子さんでしょうか。ことしの文芸春秋3月号に「88人の『最後の言葉』」という特集があります。いずれもご立派な文章です。わたし贔屓の向田邦子さんてのはこまごまとここまでかというくらいに親切に書いてあります。白洲次郎のも個性があっておもしろいですね。妻の白洲正子の述懐に「看護婦さんが注射をしようとして、『白洲さんは右利きですか』と問うと、『右利きです。でも、夜は左・・・・・・』と答えたが、看護婦さんには通じなかった。その言葉を最後に、気持よさそうに眠りに落ち、そのまま二日後に亡くなった。・・遺言により、葬式は行わず、遺族だけが集って酒盛をした。彼は葬式が嫌いで、知りもしない人たちが、お義理で来るのがいやだ、もし背いたら、化けて出るぞ、といつもいっていた。そういうことは書いておかないと、世間が承知しないというと、しぶしぶしたためたのが、『葬式無用 戒名不用』のニ行だけである。その遺言の『遺』の字がわからなくて、私が教えたことを覚えているが、彼の日本語はその程度であったのだ。・・・・・・」。われわれも他人事ではありませぬ。そろそろ終活をせねばなりませぬ。葬式を出すか出さぬか。墓はどうするか。海へ散骨か山か。向田邦子のようにこまごまとしたことまで遺書で指示しないと残ったものは大層大変なのをまずは知るべきです。そうそう、山口瞳も好く書いていますね。箇条書きで三つありますが、二番目に「一、そのかわり、通夜は、これも自宅で、昔の新年会のようにドンチャン騒ぎをやってもらいたい。食べもの飲みものは、繁寿司のタカ―キ―と下北沢の小笹寿司の岡田周三さんに相談してください。」とある。この話は岡田さんの一番弟子で、現在の銀座八丁目の小笹寿し店主、寺嶋和平さんにじかに聞いていたのでなにやら身内のことのようです。遺言通り、岡田さんと寺嶋さんらは山口家で寿司を握ったそうです。後日親族がお代をきくと、岡田さんは受けとらなかったそうです。以上余談まで。3月28日。
●司馬遼太郎「峠」に見る河井継ぐ之助の最期。山県狂介(有朋)・黒田了介(清隆)率いる官軍(西軍)から自藩の長岡城を奪取し返した直後の1868年(旧)7月24日、継之助は流弾を浴び左脚の膝の下を砕かれた。これが化膿して致命傷となった。「あわて者だな」「頭が北向けになっているではないか。南へむけろ」(北向けだと、総督が死んだと味方はおもうであろう)(7月28日夜から、官軍は長岡城を猛攻した)「松蔵、刀を持ってきてくりゃえ」(継之助にすれば、敵が城下に乱入したとき、これをもってまわりの者に刺させようとおもっていた)「お城を奪って死ぬつもりではあったが、その死にぎわにこれほどの痛みがあろうとは思わなんだでや」(同29日、会津までの長途の退却を諸隊長の合議で決定)「置いてゆけ」(同8月3日、八十里越に入る)「八十里こしぬけ武士の越す峠」(松蔵は継之助の妻、おすがから「旦那様のお身に万一のことがあれば御遺井髪は持ちかえるように」と命じられていた)「よう見定めて剪りゃい」(同8月15日、にわかに病勢があらたまった)「松蔵や」「ながなが、ありがたかったでや」「どうやら、わしは死ぬ」「もうおっつけ官軍がくる。それまでにわしは自分の始末をせねばならぬ。わしが死ねば死骸は埋めるな。時をうつさず火にせよ」「急ぐ」「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」(松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくだされとわめいたが)「主命である。おれがここで見ている」「松蔵、火を熾んにせよ」(と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた)(夜半、風がおこった)(8月16日午後8時、死去)(「峠・下」pp420~431)。つづく。3月28日。
●今月はじめの明け方3時50分、携帯が鳴り、その直後メールが入った。「○○さんが亡くなった」との衝撃的文面。このところの2年は音信のなかった人だが、40年来の知り合いなのでショックも大きかった。不治の病であることをまったく知らなかった。一部の友人がその重篤を知り、92歳のお母さんは知らなかった・・・というよりもわからないように、近しい者に悟られないように平素を装った。ひょんなことで先週買った「暮らしの手帖」の「すてきなあなたに」というコーナーに「自慢の友人」というコラム(81・4-5月号・pp11-~112)が載っていて、たまたまだがそれは今回の話と同様の内容であった。「親に先立つ親不幸」は親不幸でも最たるもので罪深い。彼の吉田松陰(1830~1859)もその2つの辞世の句で「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」と詠む。つづく。3月28日。
●今井信郎の孫である今井幸彦著「坂本龍馬を斬った男」から。今井信郎(1841~1918)にインタビューするという形式で本書の内容を簡単に紹介したものがネット上にあったので紹介する。
Q「あなたは強いんですか」
今井「18で直心影流榊原先生門下、3年で免許、講武所師範代、横浜講武所勤務をえた後、講武所教授を務めた。大政奉還のころに腕を見込まれて京都に呼ばれ、見廻組与力頭。解散後は衝鉾隊隊長として北越戦争、会津戦争、箱館戦争という幕軍対官軍の主な戦場の最前線を走り回ったわ。河井継之助や土方歳三の最期も見た。わしが生き残ったのは運が良かったからじゃ。だいたいな、剣術の免許とか目録とかいう人を斬るのは素人を斬るよりはるかに容易、剣術などは習わないのが安全」
Q「坂本龍馬を暗殺しましたか」
今井「やったぞ。しかしな、世間が言うように暗殺などではない、あくまでも公務執行じゃ。あやつは寺田屋で同心をピストルで殺しよった。いわば警察官殺害の凶悪犯よ。今となってはそんなこともあったなという感覚じゃけどな。わしの人生の一エピソードにすぎん」
Q「谷将軍などは今井は嘘を言うておる、下手人は新撰組の原田だ、などと反論していますが」
今井「人殺しは俺に違いないといい張って争うバカがどこにおるか(笑)」
Q「ひとりでやったのですか」
今井「いや。某と二人で2階に上がった。取り次いだ下僕の相撲取は後ろから斬ったの。奥の部屋に入ってびっくりしたのは2人おったことじゃ。わしが「坂本先生おひさしぶりです」言うたら、「はて?」と顔を上げたから、そこをサッと斬った。もう一人のほうは某が拝み打ちに斬っておった。わしは倒れた龍馬の背中を袈裟に斬った。とどめの一撃は振り向いた奴の鞘で防がれた。さすが坂本龍馬、豪勇の士よ。新撰組が手を出せんかったわけじゃ。しかし、膂力は弱っておったから力でねじ斬ってやった。とどめを刺したわ。わしも右の人差し指を怪我した。ほれ、今もあまり動かん。気付くと後ろで隊長の佐々木只三郎が「もうよい、もうよい」言うてたな」
Q「某、とは誰ですか」
今井「新政府に出仕したからあまり言いとうない。清河八郎を斬った見廻組の隊士じゃ」
Q「維新後はどうされましたか」
今井「裁判後、特赦で解放された。西郷先生の骨折りで死罪を免れたからの。静岡に寄っておった家族のもとに帰った。これからの世の中、学問がどんなに大切か剣や槍を振り回すことがいかに愚であるかを説いた。弟は東大に入れたし孫も東大じゃ。わしも静岡や八丈島に学校を建ててな、教育関係に力を注いだ。西南戦争のときだけは心が動いた。西郷先生のためになろうと昔の仲間を募って決起したがの、間に合わなかったわい・・・それからはの、静岡の山間に引き込みひっそりと心の安住を求めておった。キリスト教にも入信したの。大正7年、78歳まで生きたぞ」
Q「最後に聞きます。龍馬事件を教唆したのは誰なんです」
今井「知らん。わしは命令に従っただけじゃ」「知ってても言わんがの」。3月27日。
●いま「峠」を読んでいるが、やはり司馬さんは面白いですね。筆頭家老まで登りつめた河井継之助(1827年1月27日~1868年10月1日)は、越後長岡藩を会津藩・桑名藩でもなく官軍(西軍)でもなく、中立の独立国(藩)を築くべく奮闘の最中、古屋佐久左衛門(1833~1869年6月25日・五稜郭で新政府軍の艦砲射撃による負傷死)率いる隊の「浮浪軍」が新潟にやって来た。その古屋の参謀(用心棒)がなんと近江屋事件で坂本竜馬(1836年1月3日~1867年12月10日・旧暦ではともに11月15日)と中岡慎太郎(1838~1868年12月12日)を暗殺した今井信郎とも面会している。ちょうど西郷さんを用心した桐野利秋(中村半次郎・1838~1877年9月24日)のごとくにである。「『お手前は?』と、継之助はきいた。・・・男は、おもいきって低い声で、『今井信郎』といった。知る者なら知っている名である。かつて京の治安維持の官設剣客団として一方で新選組があり、一方で見廻組があった。新選組は浪士のあがりだが、見廻組は原則として幕臣の子弟で組織されていた。今井信郎は、その幹部である。維新後、新政府の弾正台のしらべをうけ、今井は『土州の坂本竜馬を殺したのは自分である』と自供し、有名になった。が、継之助はむろん、そういうことは知らないし、知る必要もない。とにかくも古屋の副将であるという。」(司馬遼太郎「峠」下巻・pp160~161)。「峠」が書かれたのが1968年。戊辰戦争(北越戦争)は1868年。ちょうど100年が経過しての作品です。ノモンハン事件を書くことができなかった司馬さん。太平洋戦争の歴史小説がかかれるのは2045年、今から30年もかかろうというものだろうか。3月27日。