「竜馬がゆく」の最後まで・・・・・・
○「中岡にも刀をとる余裕がない。九寸の短刀しかない。信国在銘、白柄朱鞘で、鍔はついているものの、脇差というより匕首のみじかさである。これをもって敵の大刀と渡りあったが、十一ヵ所に傷を受け、ついに倒れ伏した。わずか数分、気絶していたらしい。しかしすぐ息を吹きかえした。このとき敵がひきあげるところであった。ほどなく竜馬も、よみがえった。この気丈な男は、全身にわが血を浴びながらすわりなおしたのである。中岡は、顔をあげ、その竜馬を見た。竜馬は行燈をひきよせ、わが佩刀の鞘をはらって刀身をじっと見入った。『残念だった』 思えば、そうであったろう。千葉門下の逸足として剣名を江都に轟かせた青春をもちながら、鼠賊同然の刺客に不意をおそわれ、しかも剣さえ使えなかったことをおもうと、無念やるかたないにちがいない。『慎ノ字、手がきくか』と、竜馬はたずねた。中岡は伏せながらうなずき、『利く』と答えた。利くなら這って階下の近江屋の家族をよべとでも竜馬は言いたかったのかもしれないが、中岡のほうが自分よりも重傷とみたらしい。竜馬は自分で這い、隣室を這いすすみ、階段の口まで行った。『新助、医者をよべ』と、階下に声をかけたが、その声はすでに力がうせ、下までとどかない。竜馬は欄干をつかみ、すわりなおした。中岡も這って、竜馬のそばにきた。竜馬は、外科医のような冷静さで自分の頭をおさえ、そこから流れる体液を掌につけてながめている。白い脳漿がまじっていた。竜馬は突如、中岡をみて笑った。澄んだ、太虚のようにあかるい微笑が、中岡の網膜にひろがった。『慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ』 それが、竜馬の最後のことばになった。言いおわると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駆けのぼった。天に意志がある。としか、この若者の場合、おもえない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。(完)」(司馬遼太郎「竜馬がゆく八」・文春文庫・pp390~392)。つづく。2月25日。
●やはり竜馬の最期は司馬さんでしょう。書棚から久しぶりに「竜馬がゆく」を手にして8巻の終わりの「近江路」を読み返した。司馬さんの文章をもって龍馬の最期を映像化した。
○「数人の武士が、近江屋の軒下に立った。午後九時すぎであった。刺客である。」
○「佐々木はひとり土間に入り、二階へ大声で来意をつげた。」
○「二階表の間に藤吉がいる。」
○「拙者は十津川郷士。坂本先生ご在宅ならばお目にかかりたい」と、名刺を藤吉にわたした。十津川郷士の何人かは竜馬と懇意だし、しかも相手はひとりである。」
○「入れかわって今井信郎、渡辺一郎、高橋安次郎が藤吉のあとを追い、のぼりつめたところでいきなりその背を真二つに斬りさげた。藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと思い、六太刀斬り、絶命させた。この間、数秒である。」
○「『ほたえなっ』とどなった。土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。」
○奥の間にとびこむなり、一人は竜馬の前額部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。この初太刀が、竜馬の致命傷になった。撃たれてから、竜馬は事態を知った。が、平素剣を軽侮し、不用心である。このため、手もとに刀がなかった。刀は、床の間にある。それをとろうとした。脳漿がながれているが、竜馬の体力はなお残されている。竜馬は床の間の佩刀陸奥守吉行をとろうとし、すばやく背後へ身をひねった。この一動作を、刺客は見のがさない。竜馬の左手が刀の鞘をつかんだとき、さらに二の太刀を加えた。左肩さきから左背骨にかけた、骨を断つ衝撃を竜馬は受けた。が、この瞬間、この若者の生命がもっとも高揚した。竜馬は跳ねるように立ちあがった。同時に刀を鞘ぐるみのまま、左手でつかをにぎり、右手で鞘をつかみ、鞘を上へ払いとばそうとしたが、敵の三ノ太刀はさらにそれをゆるさない。もっともはげしく斬撃してきた。竜馬は刀を抜くゆとりもなく、鞘ぐるみその三ノ太刀を受けた。火が散り、鉄が飛んだ。おどろくべきことであった。敵の斬撃のすさまじさは、竜馬がもつ陸奥守吉行の太刀打の部分から二十センチばかりの鞘を割り、なかみの刀身を十センチばかり鐫ってけずったことであった。瞬間、半月形の鉄片が、飛んだ。敵のわざのすさまじさもさることながら、致命傷を受けつつも、なお鉄を鐫るまでの斬撃を受けた竜馬の気魄は尋常ではない。鐫ったいきおいで敵の太刀は流れ、流れて竜馬の前額部をさらに深く薙ぎ斬った。竜馬は、ようやく崩れた。くずれつつ、『清君、刀はないか』と、叫んだ。清とは、中岡の変名石川清之助のことである。この場に至ってもなお中岡を変名でよぶ配慮をしたのは、竜馬の意識が明確であった証拠であろう。以上も以降も、すべて事件の翌々日に死んだ中岡の記憶による。」(司馬遼太郎「竜馬がゆく八」・文春文庫・pp387~390)。つづく。2月24日。
●龍馬の生誕と絶命は、旧暦の同じ11月15日である。1867年のその日の午後8時、河原町にある醤油屋の近江屋の離れに潜伏していた龍馬は、生憎の風邪気味であった。軍鶏鍋で精をつけるべく小間使いを肉屋へ走らせていたのか。離れから近江屋の母屋の2階へ移動し、軍鶏肉の到着を中岡慎太郎とふたり密談しながら待ち望んでいたのであろう。そこへ幕府の京都警察役である「京都見廻組」の佐々木只三郎以下7人が現れ、「十津川の郷士だが、坂本さんは御座るか・・・・・・」云々と下僕の藤吉に告げ、その挙動(藤吉が2階へ上がりかけた)に龍馬が階上に居ると確信した。7人のうち3人(桂隼之助=かつらはやのすけ他)が藤吉を斬り、そのまま2階に上がって龍馬、慎太郎と格闘の末、龍馬は脳を割られて(脳漿=脳脊髄液が噴出した)即死、慎太郎は2日後に死亡した。この2日間の生存が龍馬の最期を後世に伝えることとなった。龍馬暗殺が京都見回組によることは、事件の2年後、隊士のひとりである今井信郎(いまいのぶお)の供述から・・・・による。暗殺現場に残ったものは、血染めの掛け塾(板倉槐堂筆の「梅椿図」)、龍馬の差料の吉行、龍馬着用の羽二重の紋服、書画貼交屏風などという。(これらは近江屋主人・井口新助からのちに京都国立博物館に寄贈)。つづく。2月24日。
●凡軍之所欲撃、城之所欲攻、人之所欲殺、必先知其守將左右謁者門者舎人之姓名、令吾閒必索如之。凡そ軍の撃たんと欲する所、城の攻めんと欲する所、人の殺さんと欲する所は、必ず先ず其の守将・左右・謁者・門者・舎人の姓名を知りて、吾が間をして必ず索りて之を知ら令めよ。(浅野裕一著「孫子」pp240~241・講談社学術文庫)。「孫子」とは、「中国の兵法書。1972年、山東省銀雀山の漢墓から、従来の『孫子』と孫臏(そんびん)の『孫臏兵法』の竹簡が出土。二種(孫武と孫臏著の二つ)あることが確認された」(スーパー大辞林改変)。「孫子」は孫武の尊称で、春秋時代(BC770~BC403)の斉の兵法家。孫臏は戦国時代(BC403~秦の始皇帝の中国統一のBC221年までの動乱期)の同じく斉の兵法家で、孫武の子孫という。それにしても毎日毎日、正男氏暗殺事件を、よくもまあ朝から晩まで番組やるよな。そんなにも視る人が多いということだろうが、日本国内のことで重要な案件(共謀罪・PKO「戦闘」・文科省天下り及び他省斡旋)がほかにも沢山あるだろうに。2大臣が「辞任を逃れる」ぞ・・・とばかり、ほくそ笑んでることでしょう。つづく。2月21日。
●いろいろと興味のおもむくまま書き連ねていますが、諸説紛々していることを御承知おき下さい。2月21日。
●処刑・粛清・暗殺をしなかったことが主因で政権(平安時代末期)を奪取されたのが平家です。そうですね、源頼朝(1147~1199)と義経(1159~1189)であります。平治の乱(1159年12月)に敗れた義朝(1123~1160。清和源氏の流れを汲む河内源氏。保元の乱で後白河天皇方に加わる。平清盛と対立。平治の乱を起こして敗れ、東国に逃走中、家人の長田忠致によって尾張で殺される)の三男である頼朝が今日のその人ですね。頼朝の長兄・義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄・朝長は逃亡中の負傷が元で死亡。 永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝の処罰は死刑が当然視されていたんですが、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられ、3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島への流刑となったんであります(Wikipedia参考)。 鎌倉幕府成立のもう一人の立役者もそうですね。源義朝の九男として生まれ、牛若丸こと、義経であります。女九条院の雑仕であった母の常盤御前は、平治の乱後、数え年2歳の義経(牛若)は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れ(Wikipedia参考)、ついには頼朝をよく手伝って壇ノ浦で平家を滅亡(1185年)させたんであります。このように、長兄・次男に同じく頼朝を処刑し、義経も探し出して同刑に処せば、その後の日本史は多少は変わっていたかもしれないということであります。つづく。2月21日。
●そもそも暗殺が中国紀元前の春秋戦国時代のころからして、果たして珍しい粛清事件であったのか、否か。きのうから「孫子の兵法三十六法」を読み返してみるに、「用間」(間諜=スパイ)篇に暗殺について書かれた箇所がありました。(承前)これは暗殺ではありませんが、豊臣秀吉の血(DNA・Y遺伝子)を絶やすべくされた粛清があります。秀頼(注1)の子、「国松」であります。これからは池波正太郎の「真田太平記」の文章です。
「ところで、豊臣秀頼は、他の側室との間に、一男一女をもうけている。
男子は国松といい、大坂落城の折には八歳になってい、女子は七歳であったという。
戦後の五月二十一日に、伏見に隠れていた国松は捕らえられ、翌々日に六条河原で首を斬られた。
豊前小倉の城主・細川忠興は、国松斬首の事をきいて、
『目もあてられざる次第に候』
と、幼い国松の哀れな最後を悲しんでいる。
女子のほうは一命を助けられ、鎌倉の東慶寺の尼僧となった。
五月七日の夜。
千姫を脱出させた大野治長は、傷の出血に苦しみつつ、
(まだか・・・・・・まだか・・・・・・)
と、吉報(注2)を待っていた。」(池波正太郎「真田太平記十一・大坂夏の陣」・新潮文庫・p539)
注1:秀頼自身が秀吉の実子ではなく淀君(茶々)と乳母の・大蔵卿局(?~1615年6月4日、治長らとともに秀頼に殉死)の長男・大野治長(?~1615)の間の子ではないかとの説もあり。大坂城の大奥は女性が1万人もいたとされ、秀吉の子供は先に夭逝した庶長子の石松丸秀勝(近江長浜城時代の側室との実子)と鶴松と3人のみ。女好きの秀吉にしてはその数が少ないことから子種があったかどうか疑わしいということだ。
注2:千姫(於千)を徳川側に返して、その見返りに秀頼・淀君・その他の命乞いをしたということ。(注は親仁による)。つづく。
●司馬さんはこの光秀の「信長急襲・暗殺」に対して、長曾我部家の関与をほのめかすセリフを「夏草の賦」で書いています。四国をほぼ制圧していた元親に対して1581年、四国への政策を転換し、それを光秀に明かします。「土佐一国は与える。それに阿波の南部はさし添えよう。あとはみなわしに差し出せ。もしそれに異議をとなえるならば当方から征伐をする。そう申せ」(司馬遼太郎「夏草の賦・上」・p314・文春文庫)・・・と。流石は司馬さん、国民作家を超えた勉強心と洞察力。多分、その場に司馬さんが居た筈です。呵呵!!! つづく。2月20日。
●気候は「三寒四温」と云うのに世界の毎日は極寒ニュースの雪崩です。「暗殺」、この2文字が脳裏に浮かばせるものは、人それぞれでしょうが・・・・・・私の場合のいちばんは本能寺の変(1582年=天正10)ですね。なぜに明智光秀が織田信長を本能寺で殺害(自害)したかについては諸説ありますが、最近見つかった書状により、四国征伐から長曾我部家を護るためとの説得力が高まっています。もっとも安土城の家康接待に関してあれだけ苛めを受けるなど、さまざまの理由が重複しているのでしょうが(注)。なぜ長曾我部かというと、長曾我部元親の正妻が光秀の右腕(一番家老)であった斎藤利三(内蔵助)の妹だったんですね。光秀には長曾我部家を護るべく家臣の血縁があったということです。余談ながら、利三の娘「お福」が徳川家光の乳母であり、大奥の「春日局」様ですぞ。司馬さんの「夏草の賦」・週刊朝日MOOK「没後20年司馬遼太郎の言葉(pp199~255)」※司馬さんは「夏草の賦」では長宗我部を長曾我部と表記。元親の正妻の名は「菜々」としている。正確な名前は書き残っていないらしい。司馬さんの命日は「菜の花忌」なので、自分の好きな花の名前を使ったと察せられます。と言うことで、今週は「暗殺」がテーマですぞ。乞うご期待。注:諸説とは、①怨恨・不満説、②政策上の対立説、③四国政策に関する苦悩説、④単独犯説、⑤朝廷関与説、⑥足利義昭関与説、⑦秀吉主犯・家康従犯・光秀実行犯説、イエズス会など南欧勢力説・・・・・・など多数(Gakken・歴史群像シリーズ「織田信長」・2013年10月・p29)。つづく。2月20日。
●先週末、久しぶりに宮日の「窓」蘭に投稿しました。18日、幸運にも掲載されました。日向の呑み屋街はまだまだ新参の未開地ですが、今年前半には、否、盆前のひょっとこ祭りまでには「通」になれるでしょうか。日向は本当にこぢんまりで良い処ですぞ。意外にも県外出身の店主が多いのは何か理由があるのでしょうか。そんなこんなを含め解決してみましょう。では、どうぞ。
タイトル:日向の食と酒、駅前で気軽に
○夕刻日豊線を上り、ひいきの日向の街に。ひょっとこメロディー流れる駅庭に立つ防府駅の山頭火ばりの牧水像に、酒と旅への感謝を込めて敬礼し真ん前の上町へまっすぐ。○ドングリをたらふく食べた入郷どれのイノシシにドンコ、門川の練物に唐人干し、夏は小丸川と耳川のアユやエノハを、宇納間の備長炭にのっける。鹿ヒレのチルドと、平兵衛酢(へべす)を搾ったカキを一かみ二かみしてゴックン。○春にはゼンマイやワラビにウドのえぐみ。その都度、芋焼酎と諸塚の麦・米焼酎で口腔(こうくう)と食道をさっぱり洗う。締めは有楽町ガード下の青物専門立ち食いすしに負けてない、美々津に細島、門川獲どの青魚の握り。○一辺がまさに一町のこぢんまりとした日向駅前呑み屋街。訪問のたびに好きになる。現在の牧水像はプラスチック製であまりにもお粗末。野球選手の手形は陰で目立たない。近未来、モニュメントの再考がなされるなら、日向の酒場放浪の格上げも請け合いだ。(○は改行)。2月19日。