●旅のもうひとつの、否、旅以上の楽しみはやっぱり夜の街です。そうです、居酒屋放浪です。函館山から文字通りの世界一の夜景を見たら・・・・・・もうその後はビールしかないでしょう。場所は2カ所に絞っていましたが、時間的に1軒しか無理でした。ロープウエイの待ち時間が予定外でした。空港について昼食をとった鮨店の「木はら」さんの板前さんから教えてもらった居酒屋「炭小屋」です。函館市本町にあり、市電「五稜郭公園前」電停下車、徒歩3分のところでした。キンキの煮付と真鱈の煮付を食しました。とくに真鱈の身の厚さは初の体験でした。珍しく日本酒をグイッとやってしまいました。すぐにラストオーダーの時間が来ましたが、とても満足な居酒屋さんでした。終電も去り、タクシーでのホテル帰りとなりました。今回はどうも処々巡りがメインのようでした。次回は北海美味巡りを主体としなくちゃですね。7月8日。
●世界三大夜景はナポリに香港、そして函館です。函館の2017年3月31日の人口は26万3750人です。人口は多くありませんが、何故に夜の絶景なのか・・・・・・函館は小児の出べそのように津軽海峡に面しています。ランドマークの函館山を突端に三方が海です。夜の海は暗黒ですから、出べその灯りは浮き上がるように鮮やかです。オレンジの街灯もインパクト充分です。5月にはもうひとつのランドマーク、五稜郭の桜がライトアップされ、さらに光を放つそうです。私は日暮れの1時間後にロープウエイで上りましたが、案内通り、日没後30分が最も見栄えするそうです。日没後は気温が下がり、水蒸気が濃縮されて空気の透明度が下がるからでしょう(靄がかかるということでしょう)。ではどうすれば得をするかと言うと、日没の30分前に登頂し、1時間ほど滞在して、込み合う前に下山することです。ロープウエイは込み合うのでバスを利用するのがベストかもしれませんが、押し競饅頭のロープウエイからの夜景も乙であります。ロープウエイは上りが5分、下りが3分程に感じましたが、待ち時間は昇降それぞれ30~40分でした。超混雑日は90分待ちだそうです。ゴンドラは125人乗りで入替を含め5分で登頂・下山ができます。あの世へ行く前にもう一度”鑑賞”してみたい自然と人工の混合芸術です。7月8日。
●梅雨前線停滞と「線状降水帯」による福岡・大分の豪雨災害。5日夕刻のニュース中継を見ながら、これは重大な被害になるんじゃないかと悪い予感がしました。なぜかと言うと、記者かアナウンサーが「川が氾濫する危険があります」・・・・・・と原稿を読んで実況しているのですが、背後の映像は増水した水がすでに川岸を越えて道路や民家に流入していました。と云うことは、ニュース実況(中継)の原稿が間に合わないくらいに水嵩が急激に増したとことを意味しています。約2日経っても被害の全体像がつかめない事態です。連絡の取れない地域もあるようです。今後、亜熱帯化が北上して、このような甚大な水害が頻繁化すると思うとゾッとします。明日は我が身・・・・・・肝に銘じなくては。七夕どころではない暗い空模様です。7月7日。
●印藤聿(1831~1911)への龍馬の同じ書簡で、北海道開発の前段(前文)に「上一段二段の事どもつらつら案ずる所、彼竹島行の事ハ兼而(かねて)御聞ニ入置候通り、三大夫ニも御聞ニ入レ申セしニ、随分御同心ニ候て、何レ近日二度ビ関(下関)ニ出候而(て)決定可レ致との事なりし。其後ハまだニ御めニかゝらず、御返じを相待所ナリ。然ニ当今世上の人情目前の事斗でなけれバ、相談ハならぬ事故ニ諸人ハ竹島行の事共ハ、皆無用の事として大夫が遠大の策にハ随ふまじくか、然レバ其事ハ行ハれまじく残念の儀に相察し候。」と書いています。驚きですね・・・・・・竹島の開発にも言及しています。列強への驚異と確かな国の境界(領土)を強く認識していたことがうかがわれます。流石です・・・・・・先見の明に頭が下がります。尖閣も、北方領土への想いも・・・・・・龍馬があと20年生きてくれていたら・・・・・・と思わざるを得ません。七夕の7月7日。
●土佐高知の坂本龍馬記念館は来春まで1年間のリニューアル休館中。それ故「壺中の別天地」の「龍馬」行脚は来春以降になります。高田屋嘉兵衛資料館(末広町)と高田屋嘉兵衛像(宝来町)との間に「坂本龍馬像」(末広町)を発見しました。何故に函館に・・・・・・と思いましたが・・・・・・後の祭りでした。入館はせずに像の前で写真撮影しただけです。龍馬が北海道(蝦夷)の開発に並々ならぬ興味を抱いていた証拠の書簡があります。1867年(慶応3)3月3日、長州藩士・印藤聿(1831~1911)宛てにかいた書簡です。龍馬が近江屋で暗殺(同11月15日)される8カ月前のものです。印藤聿は龍馬に接触した最初の長州藩士とされ、寺田屋事件で龍馬と一緒にいた三吉慎蔵(1831~1901)を紹介したのも印藤であります。現存する龍馬から印藤宛ての書簡に、「小弟ハヱゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候。其中助(伊藤)太夫事、別ニ小弟の志を憐ミ、且積年の思ひも在レ之、不レ屈して竊(ひそか)ニ志を振ひ居申候。」と書いています。銅像脇の碑には「小弟ハヱゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候。」と刻まれています。つづく。7月7日。
●啄木流浪中、妻節子一家を支えていたのが宮崎郁雨。郁雨は節子の妹の夫で、啄木からすれば義弟になる。啄木はその歌の内容とは異質な性格だったようで、「啄木は所謂『たかり魔』で、困窮した生活故に頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助は樺太に出張中にも啄木から金の無心を受けた。・・・・・・啄木は各方面に借金をしており、またその事を自身で記録に残しているが、合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる。この金額の内、返済された金額がどれくらいあるかは定かではない(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)。この借金の記録は、宮崎郁雨(合計額として最多の150円の貸し主)によって発表されたが、発表の後には啄木の評価は『借金魔』『金にだらしない男』『社会的に無能力な男』というのが加わるようになった。啄木は友人宛の手紙で蒲原有明を『余程食へぬやうな奴だがだましやすいか』、薄田泣菫や与謝野鉄幹を『時代おくれの幻滅作家』と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにも関わらず『一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと』と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜な一面もあった。・・・・・・9月に郁雨が節子に送った無記名の手紙に『君一人の写真を撮って送ってくれ』とあったのを読み、これを妻の不貞と採った啄木は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交することを告げた。1911年9月16日付の啄木の妹・光子宛の葉書では、この事件を『不愉快な事件』と記している。」(Wikipediaより)・・・・・・この「不愉快な事件」の張本人(手紙の送り主)が郁雨であります。後日、人から、「友の恋歌の『友』とは、あなたではないですか?」と問われ、常に「あれは複数ですよ」と答えていたという・・・・・・から、これまた意味深な問答であります。いずれにせよ、郁雨が郁雨の妻の姉である節子に恋愛感情をもっていたのは事実だそうです。啄木から絶縁されていたにも関わらず、節子の要望もあって啄木の墓碑建立や「啄木を語る会」を発足させるなどしていますから・・・・・・その当時の人間模様は複雑ですね。節子は啄木の死(1912年4月13日)の翌年(1913年)の5月5日、同じ肺結核で死亡(行年28)しています。郁雨は1962年まで生存しました。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」・・・・・・このような泥沼な人間関係を解すれば、何とも味わい深い、「矢ぐるまの花」が何とも鮮やかに輝いているようです。もちろんここの「矢ぐるまの花」はユキノシタ科の植物・ヤグルマソウではなく、キク科のヤグルマソウ(ヤグルマギクの別名)に違いありませんが。歌碑を鑑賞し、合掌し、公園の展望台から啄木一家の墓地がある立待岬を遠望した後、坂道を少し下ったところに「石川啄木居住地跡」の案内板があります。その近くを痩せこけた2匹の猫が怠そうに歩いていました。啄木も面倒見た猫の子孫かもしれません・・・・・・啄木の写し姿を見たようでした。7月6日。
●「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」。函館の旅は土方歳三に高田屋嘉兵衛・・・・・・そして石川啄木(1886~1912)でした。啄木は1907年(明治40)5月5日、文学同志を頼り、岩手県渋民村から津軽海峡を越え函館に来ました。啄木21歳の時です。大島流人らの同人誌「紅苜蓿」(べにまごやし)の編集に携わり、函館商工会議所の臨時雇、弥生尋常小学校の代用教員を経て、8月には函館日日新聞の遊軍記者で生活の糧をつなぎます。ホテルから路面電車(谷地頭線)に乗り函館公園のある青柳町へ向いました。地理はJR函館駅から函館山を見たとき、函館山の左の山裾です。電車を降りて緩やかな坂を5分も歩けば「函館の青柳町こそかなしけれ・・・・・・」の歌碑に到達します。子供と遊ぶ若いお母さんたちが数名寛いでいました。碑の前の案内文は、「この歌碑は、啄木の青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛誦されている。薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人苜蓿社の諸友に囲まれ、文学を論じ、人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと夢を思い悲しんだ。」とあります。函館を去る原因は大火であり、住処と書き溜めた原稿を消失しました。わずか132日の函館滞在後、啄木は家族共々住んだ青柳町を去り、札幌、小樽、釧路と転々としました。この間、妻子はここ函館に残り、その家族の生活を支えたのが、「不愉快な事件」の宮崎郁雨(1885~1962)でした。つづく。7月6日。
●東京都議会選挙での自民党の歴史的惨敗。選挙前、威勢の良かった自民党国会議員はシュンとして萎れていますな。まさに「青菜に塩」状態でしょうが、今だからこそ日本国のため日本国民のため、思いの丈を思う存分語ってもらいたいですね。都の落選議員を目の当たりにして、次の国会議員選挙ではわが身と思ったのでしょうか。安倍ちゃんにしても官邸にしても閣僚にしても、今回の民意の結果をどう受け止めたのか・・・・・・判然としませんね。具体的な反省の弁はほとんど聞かれません。そのなかでも「加計問題」は今回の惨敗理由の核心中の核心であります。安倍ちゃんはじめ関係者は取り敢えず「加計問題」を御破算の白紙撤回の一からの出直しにすべきです。この場に及んでこのことが即断できないのは、それだけですでに政権運営能力が消滅したということです。7月5日。
●高田屋嘉兵衛(1769~1827)は1世紀早い日露戦争を回避させた功労者でもあります。そうです、世に有名な「ゴローニン事件」であります。ロシアの南下政策は今始まったことではありません。18世紀江戸後期から、ロシアは千島を圧迫し、鎖国下の江戸幕府との間で緊迫した情勢が続いていました。 ロシア艦船ディアナ号艦長、ゴローニン(1776~1831)は1811年クナシリ島で7人の船員と共に日本側に囚われ箱館へ護送され、さらに松前に移されました。ゴローニンの松前幽閉期間は実に2年3カ月でした。翌1812年8月14日、ディアナ号副艦長のリコルド(1776~1855)が率いるデイアナ号によって身代わりとして、たまたまクナシリ島沖を航行中であった嘉兵衛の観世丸を拿捕したのです。嘉兵衛は、乗組員60人ほどから嘉兵衛が選んだ4人と共にカムチャッカに連行され、8カ月間もの間、厳冬の中に幽閉されました。その間、リコルドほかのロシア人と信頼関係を深めたことで、松前奉行の委任を受けてゴローニン釈放の折衝役をにその身を挺して努め、1813年9月26日、遂にゴローニンの釈放を実現させました。高田屋嘉兵衛といえば「ゴローニン事件」、「ゴローニン事件」といえば嘉兵衛です。資料館でゴローニン著の「日本幽囚記・Ⅰ~Ⅲ」(佐藤智之訳)とリコルド著の「対日折衝記・1812年と1813年における日本沿岸航海と日本人との交渉」(佐藤智之訳)を買いました。その中でゴローニンは嘉兵衛のことを「高潔で尊敬できる日本人」と称賛しています。嘉兵衛については多くの時間、直接語りあったリコルドの著書の方に嘉兵衛の人となりが良く書かれています。一読ですな。7月5日。
●「当時人口3千人ほどの寒村であった函館は、高田屋によって街としての発展の基礎が作られた」と資料館のパンフにあります。高田屋嘉兵衛は現在ある「高田屋嘉兵衛資料館」の場所で造船所を営み、同時に国後・択捉島への航路を拓きながら多くの漁場を開拓した偉人であります。今の資料館は当時、波打ち際だったということですが、1801年から江戸幕府や高田屋嘉兵衛などにより函館港の埋立整備が始まったそうです。キュレーターさん曰く、「当時の函館の戸数は4~5百戸で、人口は2千人ほどなんでしょうか」。嘉兵衛が函館に着目したのは「辰悦丸を入手した翌年の寛政9年(1796年)には、嘉兵衛は兄弟と力を合わせ、初めて蝦夷地まで商売の手を広げた。当時、蝦夷地を支配していたのは松前藩で、その城下にあたる松前では近江商人などが利権を確保しており、新参者が参入する余地はなかったようである。そこで嘉兵衛は、当時松前の三湊といわれた松前、江差、箱館の中でも、まだほとんど開発されていなかった箱館を拠点とし、寛政10年(1798年)に弟の金兵衛を箱館の支配人とした。」とWikipediaにあります。稲が日本列島に伝来する縄文期終了まで、北海道はアイヌなどオホーツク人の人たちが住んでいた島であったのでしょう。記紀によれば、古墳時代後期には阿倍臣(あべのおみ)が北海道にも渡ったという。(しかし当時の北海道は稲作に不適であった)。鎌倉・室町期になると人間が集団を組み、たとえば岩手の南部氏は甲州(山梨県)から徒党を組んで海路やってきて征服事業をしたという。北海道南部を支配した松前氏は1451年(宝徳3)、若狭から出奔してやってきたのである。この松前氏は明治維新まで5百年続いた。嘉兵衛が鬼籍に入って27年後の1854年(嘉永7)、ペリーが函館に来たころの函館の戸数は千戸まで膨らんでいたのです。(司馬遼太郎「街道をゆく15・北海道の諸道」を参照)。7月4日。
●「壺中の別天地」・函館篇。「夜、町へ出て宝来町で夕食をとった。その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして-つまりは海にむかって-銅像が立っているのに気づいた。食事を終えて出るとき、銅像の高い基壇に近づいて、下のほうの堂の文字をみると、高田屋嘉兵衛とあった。」(司馬遼太郎「街道をゆく15・北海道の諸道」・pp40~41・高田屋嘉兵衛)。函館旅行のいちばんの目的は土方歳三の最期の地碑で合掌し、高田屋嘉兵衛の歩いた港界隈を散策することでした。初日に訪問した「高田屋嘉兵衛資料館」は休館日でしたので、翌日、「函館朝市」と「自由市場」を探索したのち、午前9時の開館を待って入館しました。私が一番乗りでしたが、次々にオヤジたちや老年夫婦、小学校の修学旅行生たちが入ってきて、たちまち十数名になっていました。資料館には背の高い高齢の男性キュレーター(学芸員)さんが親切丁寧に説明してくれましたが、次々の来館者に話は途切れ途切れで最後まで聞けませんでした。タクシーの運転手さんよりも私の方が物知りのことが少なくないんですが、流石はキュレーターさんだけあって、御当地でしか教えてもらえないことも沢山ありました。帰宮して「街道をゆく」を読み返しましたら、司馬さんが昭和41年1月に函館へ旅し、湯の川の旅館に宿泊した折、夜の寒さに凍えた話が「寒冷と文化」にあります。その時の旅館には薪ストーブがあったそうで、夜中に自分で薪を補充する労働を怠ったために酷い目にあったというものです。その日本で最初のストーブが資料館に鎮座していました(復元品ですが)。高田屋嘉兵衛もそのストーブの恩恵に与ったかと思いきやさにあらず・・・・・・この日本最古のストーブは1856年(安政3)に武田斐三郎が函館入港中のイギリス船にあったストーブを参考にして見よう見まねで完成させたそうです。武田斐三郎(1827~1880)と言えば、そうです、五稜郭を設計・建設した大人物(偉人)であります。高田屋嘉兵衛に関しては司馬さんの「菜の花の沖」に尽きます。司馬さんも江戸時代の日本人でいちばんの偉人と讃えています。司馬さんの命日は「菜の花忌」であるように、司馬さんが最も愛した花の名前が「高田屋嘉兵衛」の小説です。ここでは「高田屋嘉兵衛資料館」のパンフレットを掲げて概要とします。7月4日。
●「壺中の別天地」・函館篇。土方歳三は最期、五稜郭を馬に乗って出、官軍の中を悠然と通過してゆく。「名は何と申される」の問いに、土方は「名か」・・・「新選組副長土方歳三」と応え、なおも馬の歩をゆるめず・・・官軍の射撃の弾は馬上の歳三に命中し、その身は馬腹を蹴って馬の頭上を跳躍・・・これが歳三絶命の瞬間であった(司馬遼太郎「燃えよ剣・下」pp542~543を参照)。司馬さんは、土方歳三の最期を栄国橋とし、埋葬地は函館市内の納涼寺としている。しかしその埋葬地については五稜郭の桜の下とも、「土方歳三最期の地碑」のある一本木関門付近(最も有力な説)とも・・・諸説あるが定かでない。掘り起こそうにも戦死した五稜郭軍の多くの兵士とともに埋葬されているから・・・無理と云うものだ。歳三に限らず勇敢に戦った戦士に無礼であり、安穏に眠っていていただきたい。Wikipediaでは、「明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦『朝陽』が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て『この機会を逃すな!』と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『我この柵にありて、退く者を斬る!』と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。」と云う。土方歳三は真正面から戦い、逃走するやもしれぬ兵に対しても白刃突撃を最期まで命令したのであり、その結果仲間に裏切られ暗殺されたやも知れぬと云うことだ。7月3日。
●加計学園獣医学部の建物利用の件・・・・・・獣医学部設置は仕切り直し必至であるからして・・・①既存の獣医学部の定員増と教官・設備の充実、②京都産業大学などライフサイエンスを標榜する候補大学の再募集、③産業動物に特化した獣医師の養成大学あるいは研究所・・・・・・親仁の今の段階での利用法思案の私案はこんなものか・・・・・私が心配しなくても用途はごまんとあるでしょうが・・・・・・。アメリカが言うような獣医師の世界水準達成など二の次の話でしょう。獣医師免許を細分化(公衆衛生・産業動物・小動物)して専門性を発展させるべく、獣医学部大改編こそがまさに国家的危機的構造改革ではないか。7月3日。
●別称が安倍昭恵小学校こと、森友学園小学校は国に買い戻されるそうですが、今回の都議選大惨敗の原因のひとつとなった加計学園獣医学部新設の建物はどうするのでしょうか。「負けて性根が入りましたから加計学園だけはお許し下さい」なんて甘い考えじゃいけませんで。国民が泣き寝入りするなんて思ったら大間違いだ。有力自民党議員も安倍ちゃん見切りをつけて・・・・・・百合ちゃんとくっ付くのもいいんじゃないですか。それにしても・・・・・・加計学園獣医学部の施設を何に活用するか・・・・・・智慧の絞りどころでしょう。7月3日。
- それこそ司馬選というか、司馬さんが選んだ日本3大人物像があるんだそうです。桂浜の坂本龍馬像、皇居(江戸城)界隈の楠木正成像、そして函館のこの高田屋嘉兵衛像だそうです。確かにそ
- たそうです。ランドマークの函館山を背にして巨大な嘉兵衛塔を建立した函館市民の思いの丈がしれます。五稜郭とともに函館の街を挟んで護衛しているかのようです。司馬さんも生前、近
- 悲しい時代でした。龍馬の北海道開拓の意志は甥の坂本直寛(1853~1911)によって実現されました。直寛の兄は龍馬の家督を継いだ坂本直です。ふたりは龍馬の長姉の千鶴(夫は高松順蔵)の子供
- つたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」も同じ大森浜の歌だそうです。なかに「愛犬の耳斬りてみぬあはれこれも物に倦みたる心にかあらむ」という・・・なんとも悍ましい、