●法隆寺を訪ねた目的のもうひとつは(勿論いちばんは世界最古の木造建築をこの目で見ることでした)、正岡子規の句碑と並んで写真を撮ることでした。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、正岡子規が生涯に詠んだ20万のうち最も有名な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並ぶ日本の2大名句(誰でも知っている大衆句として)であります。「法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意である。・・・・・・『鐘が鳴るなり』と因果関係があるわけではない。柿は大和名産の御所柿と思われる。」とWikipediaにあります。法隆寺では作務衣を着た10人ほどの係員が案内していましたが、句碑のある池の辺に近づくとそのひとりが「秋には門前で柿2個が配られますよ」と教えてくれました。JA奈良が奈良特産の柿を多くの人に知ってもらおうと、「柿の日」の10月26日に法隆寺でも無料で配布するそうです。法隆寺の時の鐘が鳴るのを待って食うのでしょう・・・・・・。7月22日。
●<現存の法隆寺再建の謎>
○法隆寺は607年、聖徳太子が飛鳥から斑鳩へ都を移す時に建てられた(聖徳宗の総本山)。法隆寺の一翼を担う西院伽藍を形成する法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されているヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが確定している。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性を示唆している。法隆寺の建立と再建には現在も諸説存在するが、発掘調査などにより、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということが定説となっている。五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年にきわめて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残っているが、心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。※若草伽藍(わかくさがらん):奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。(Wikipediaなど参考あるいは転写)。つづく。7月21日。
●<国宝・法隆寺金堂(飛鳥時代・仏教渡来から大化の改新=645年まで or 聖徳太子摂政就任の593年~大化の改新または平城遷都=710年まで)>
○法隆寺御本尊を安置。
○聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)。用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像(飛鳥時代)。聖徳太子の母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)。樟で造られた日本最古の四天王像(白鳳時代)などの仏像が安置される。
<国宝・法隆寺五重塔(飛鳥時代)>
○塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するための建物。
○仏教寺院で最も需要な建物。高さ32.5mの、わが国最古の五重塔である。
○最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群がある。つづく。7月21日。
●法隆寺とは・・・・・・入場チケット付属の「法隆寺畧縁起」を参照。
○法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築。
○用明天皇が自らの病気の平癒を祈るため寺と仏像を造ることを請願したが、実現の前に崩御。
○推古天皇と聖徳太子(574~622・用明天皇の皇子)が用明天皇(?~587・在位585~587)の遺願を継いで、推古15年(607)に建立。
○本尊は「薬師如来」。
○境内の広さは18万7千平方メートル。
○国宝・重要文化財は約190件、総点数は約3000点。
○1993年12月、ユネスコの世界文化遺産として日本初の登録。つづく。7月21日。
●安倍政権、本当にやばいんじゃないか・・・・・・カスリは着物と煙草(※)だけかと思いきや、メモもかすりとは。加計学園決定の経時的過程は、2016年11月9日、「広域的に・・・」新設を認め・・・11月17日に山本大臣自らが獣医師会事務局に出向き獣医師会と面談・・・明けて2017年1月4日、公募開始・・・となっています。公募に応じたのは加計学園だけでしたから・・・・・・今現在の大騒動であります。日本獣医師会北村直人顧問は11月17日の面談の獣医師則議事録について、「加計ありきを示す一番分かりやすい資料」とマスコミ取材に応えました。何のために会談をしたのか、秘書官も何のためのカバン持なんでしょうか・・・・・・ふざけるのもいい加減にしろ・・・・・・公僕(官僚)よ、「蜂の一刺し」の内部告発をしろってことです。獣医学部新設是非の域を超えて、こんな政権政策で国を動かされたら僕(しもべ)である国民の腸は煮えくり返っていますぜ・・・・・・ということですよ。議事録もなければ、メモも公式文書でなく、カスリ書き(カスリメモ)は丸めてゴミ箱へ(胃袋に飲みこむかもしれませんが)・・・・・・もはや録音録画必須の可視化された会談や面談が必須ということですか。ここまでの大騒動なら、大臣や官邸はそれなりの口止めをしているのは確かだな・・・・・・気の利いた官僚や側近なら盗聴しているだろうに・・・。7月21日。
●8号門クラブが全盛期の頃の譚ですが、私が彼らの間に割って入った折、クラブのボスに「ここで呑んではならない」と厳しく注意されました。「ビールいかがですか」の可愛い売子さんと目が合ったら、じゃ呑むか・・・・・・となるのが自然の成行というものでしょう。「ドリームシート」の少年野球なら、売子が来る心配はありません。したがって高校野球のバックネット裏で呑兵衛オヤジの姿をテレビで見ることは今や、ないのです。高校野球を観戦しながら酒を摂取することについては、いろんな意見があることでしょうが、甲子園については上場会社である阪神甲子園球場(親会社は阪神電鉄)の会社経営とも大きく関連性があります。甲子園球場の外野席は決勝戦でも無料です。球場を提供している阪神球場に感謝しなければなりません。会社応援の意味でも、一杯が二杯に、二杯が三杯になります。酒好きが本気で考えると難しい問題です。つい先日、同じYahooニュースに「プロ野球選手の喫煙」が問題になっていました。なぜプロ野球選手の喫煙が多いかというと、それは高校時代の指導者の喫煙姿だそうです。練習の合間や試合後にいかにもうまそうに喫っているのを見てのことです。それにしても落合氏ではないですが、観戦しながらの一杯はなんとも言えぬ至福の一杯なんですな。高校生も大人の行動を真似しますから・・・・・・節度を持った指導や観戦マナーが必要ということ・・・・・・であります。7月21日。
●昨年(2016年3月)の第88回選抜高校野球からバックネット裏に「ドリームシート」118席を新設し、軟式野球チームの小中学生を連日、試合ごとに無料招待することが決まり、現在進行形です。例の「8号門倶楽部」のバックネット裏席独占問題の解消法として、同大会運営委員会のファインプレーでした。今日のYahooニュースに「落合福嗣、父・博満氏の『球場の客席でお酒を飲む』夢をかなえる」の見出しがありました。著名な野球人が観客席で観戦しながら酒を飲むということは落合氏に限らずの「夢」らしい。私も、甲子園やサンマリン、神宮球場に出かけて観戦することを話すと・・・・・・「ビールは呑むんですか」と問われることがある。野球人、殊に甲子園や社会人、プロ野球で活躍した人にとっては「球場で呑みながら観戦するということは至極の幸福」であり「夢」なんだそうです。つづく。7月21日。
●政府や大臣の隠蔽や不正行為に対する官僚からのリーク。前川氏はじめ文科省官僚の加計学園問題に関する文科省内部文書存在の明確化。今度は、「南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報破棄・隠蔽問題」で、稲田大臣が直接関与、指示したとのリーク。それもリーク源は現役自衛隊陸幕長とも。首相・官邸・大臣v.s.事務次官・高級官僚・自衛隊最高幹部とのいろんな確執があるのだろうが、公務員の守秘義務とも絡み、その行為が国益に資するか、反するか・・・・・・一国民としては官僚の国をおもう熱き情熱と解したい。国民を欺き、愛国心を少しでも殺ぐような、国の指導者の反国家的行為の告発(マスコミへのリーク)に関しては、大いなるエールを送ろうではありませんか。官僚が政府に楯突くことは近い出世に大きく影響します。知れた通り、高級官僚(キャリア)の重要ポストの決定権は「内閣人事局」にありますから。2014年3月に可決された「修正・国家公務員制度改革関連法案」により、官僚の人事決定権は「内閣人事局」が一手に握っています。現在の内閣人事局長は彼の萩生田光一氏であり、その影の権力者は菅官房長官であり、安倍首相となります。官僚も早い時期から「イエスマン」でないと上に登れないということです。信義感の強い、真の国の財産である官僚が、官邸の意に沿わないがために爪弾きされるということです。今後もこの類のリークは日常茶飯事になるということです。つづく。7月21日。
●加計学園問題・・・・・・京都産業大学が獣医学部新設の特区申請を断念したとの記者会見。とっくの昔に諦めていたのだから、今更のところに念を押すとは何やら裏魂胆があるのでしょう・・・きっと。2018年4月開学が困難であること・・・地鎮祭(縄張り)もしてないのに当たり前でしょうに・・・それに教官が集められないという現実・・・これも然りでしょう・・・加計学園の青田刈りで草木も生えていない状況ですから・・・それやこれやですが・・・結局は最初から加計ありきのシナリオですから・・・教官も建物も間に合う筈がありません・・・。腹癒せの会見ということです。加計孝太郎氏も無言を貫いていますが、もうひとつ公に喋り捲らなくてはならない集団があります。そうです、採用が内定している教官さんたちです。どのような勧誘であったのか・・・ということです。随分前から「今治に獣医学部を安倍総理がつくります。加計学園の理事長は総理の40年来の腹心の友ですから。建物も間もなく建設開始です・・・」といった具合に殺し文句を並べたに相違ありません。つづく。7月17日。
●ランキングもさまざまでしょうが、「歴男が選ぶおすすめの奈良の寺院ランキング」というものがネットにありました。10位が長谷寺、9位が談山神社、8位が橿原神宮、7位が室生寺、6位が唐招提寺、5位が薬師寺、4位が興福寺、そしてベスト3は、3位が春日大社、2位が法隆寺、1位が東大寺・・・・・・でした。ベスト10はランキングの調査方式でいろいろのようですが、1位が東大寺、2位が法隆寺というのは多くのランキングで一致しているようです。私の今回の奈良の旅は、恥ずかしいながら初めてであります。高校の修学旅行の3つのコースのひとつが奈良・京都方面だったと記憶しています。その時は経済的な理由で参加できませんでした。それだけに今回の事前調査には念を入れました。奈良の有名寺院を隈なく訪問するには1週間も2週間も掛かることが分かりましたので、それならばランキングを見てみようと考えました。そうすると私の考えいたった順位と「歴男ランキング」がほぼ一致していたので、我ながら偶然の御満悦といったところでした。今回は時間も極めて限られ、それも急遽夕刻には上京する羽目になりましたので、せいぜい2箇所に絞らなくてはなりませんでした。司馬さんの「街道をゆく・24・近江散歩/奈良散歩」には宮大工、西岡常一氏の「いい話」を引用しながら薬師寺の技術的な優越性が書かれていますし、井上靖の「天平の甍」の鑑真和上像のある唐招提寺も外せないのですが、鑑真さんは年に3日間(6月5・6・7日)しか開帳されません。結局そんなこんなの理由で、東大寺と法隆寺を選択しました。東大寺は南大門の金剛力士立像と大仏殿の大仏様、法隆寺は五重塔と正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑です。そして何よりは東大阪市の「司馬遼太郎記念館」です。つづく。7月16日。
●今月の「壺中の別天地」と居酒屋紀行は奈良と「司馬遼太郎記念館」でした。日本史は選択していませんでしたので少し不得手であります。子供の中学・高校の教科書を参考にして復習してみますか。ここでのまずは「邪馬台国」から話をはじめましょう。(それ以前の、たとえば「三内丸山遺跡」(青森市)などについては秋の版にしようと計画しています)。邪馬台国が存在した地域で最も有力なのは奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある纒向遺跡(まきむくいせき)とされ、ここには弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡があります。
596年(推古4):蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)を建立。
601年(推古9):聖徳太子が斑鳩宮を造営。
607年(推古15):聖徳太子が法隆寺を建立。
643年(皇極2):朝廷を飛鳥板蓋宮(飛鳥宮)に移す。
645年(皇極4):中大兄皇子と中臣鎌足が飛鳥宮で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)。
670年(天智9):法隆寺焼亡。
672年(弘文・天武1):壬申の乱。飛鳥浄御原宮に遷都。
694年(持統8):藤原京に遷都。
710年(和銅3):平城京に遷都。奈良時代へ。
712年(和銅5):「古事記」完成。
720年(養老4):「日本書紀」完成。
752年(天平勝宝4):東大寺大仏開眼。東大寺二月堂の修二会開始。
753年(天平勝宝5):唐の僧・鑑真来日。
759年(天平宝字3):鑑真が唐招提寺創建。
768年(神護景雲2):春日大社創建。
794年(延暦13):桓武天皇が平安京に遷都。平安時代始まる。
つづく。7月16日。
●夏は甲子園、甲子園は夏・・・・・・劇暑であればあるほど、見甲斐がある・・・・・・これが夏の甲子園であります。今日初めてゆっくり県予選をテレビ観戦しています。第1シードの延岡学園が3回戦敗退。ベスト8入りを果たせませんでした。初戦の延岡との2回戦も4対3のサヨナラ勝ちの危うさでした。今日は宮崎学園の投手に凡打を重ねての敗退です。人生波乱万丈です。野村克也氏曰、「高校野球の面白味はトーナメント」・・・・・・にあります。幸いに人生はリーグ戦です。挫けずめげず、山あり谷ありの人生を、ある意味楽しみましょう。追:第2シードの日南学園も日向学院に6対5のサヨナラ負けを喫しました。なんということか・・・・・・ですが・・・・・・シード校が負けるのは毎年のことのようです。なんといってもNHK杯の優勝校は夏の甲子園に出場した例がゼロですから。7月16日。