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今週の親仁ギャグ・2017年7月23日(日)~7月29日(土)

●救急手術をして、酒を喰らい、夜明けに起きて、好きな司馬遼太郎吉村昭池波正太郎に耽る。うまくことが運んでの、あと10年の「健康年齢」・・・・・・きっぱりと還暦で現役引退するか・・・・・・いずれにしても余生の有り様を真剣に考え、納得の生き様をして世を終えねばならない。今度の旅は長州と決めている。奇兵隊旗揚げの功山寺晋作眠る東行庵竜馬も酒した阿弥陀寺(現下関・赤間宮)界隈、晋作や竜馬や西郷さんまでが浸った維新の湯、晋作の「国家ニ盡スノトキナリ」(「盡国家秋在焉」)の楓の刻文(「憂国の楓」)、2度目の高杉晋作生家・松下村塾の萩の街、松陰誕生地、瑠璃光寺・・・・・・「街道をゆく1・長州路」で予習しながら、晋作と竜馬に無性に会いたくなった・・・・・・のでアリマス。ついでの余談ながら、旅地での居酒屋は吉田類に、ましてや食べログに頼ってはなりません。(それに比べ太田和彦は信用できますが)。秘策は、また教えます。そうです、今回のテーマは「終活」でした・・・・・・乞うご期待。「いま壇ノ浦の阿弥陀寺でいっぱいのんでいる。奴どもがあつまってきって大変だ。慎さんはやくやって来い」(街道をゆく1・p215)。慎さんとは、もちろん中岡慎太郎のことだ。むろん竜馬の誘いの酔書である。つづく。7月29日。

●「葬式無用戒名不要」・・・・・・響きの良いフレーズであります。大共鳴します。そもそも葬式も墓も仏像崇拝も、そのような儀式や祭壇なるものは仏教の教えには存在しません。「仏教は、本来、葬儀をするための宗教ではなかったのである。クシナーラーの野で、弟子たちに看とられつつ死んだ釈迦についても、葬儀が営まれたというはなしはない。かれの遺体は、当時のインドの火葬のやりかたどおり、新しい布や綿でつつまれ、油をたっぷり入れた鉄の槽(おけ)におさめられて、火が点じられただけであった。」・・・・・・さらに「死者に戒名をつけるなどという奇習がはじまったのはほんの近世になってからである。インド仏教にも中国仏教にもそんな形式も思想もない。江戸期になって一般化したが、おそらく寺院経営のためのもので、仏教とは無縁のものといっていい。戒名がさほどの歴史性ももなく、仏教の教義にも関係がないというのは、わが国最古の過去帳をもつ修二会がそれを証明している。」(司馬遼太郎「街道をゆく・24・過去帳」pp347~362)。解脱されたお釈迦様も火葬されただけですから、われわれ凡人ごときが、格式ばった儀式を営み、またそれを偶像として拝まれるなんて大それたことは、まことの無用の不要なのです。「無用不要」でも安心してあの世に向うことができるのです。つづく。7月28日。

本能寺の変(1582年6月21日=天正10年6月2日)の災難を信長は微塵の予期もしてなかったのか・・・・・・当の本能寺は硝煙や武器の保管庫(火薬庫)の役割を果たしていたという。だから信長の遺骸は影も形もなく灰埃と化した。信長ほどの、多分に用心深い人物が、宿泊地に逃げ道の地下道(井戸)も掘っていなかったのか・・・・・・もしや持病の高血圧(料理は塩辛くないと機嫌が悪かったらしい)が身を蝕んでいたのか・・・・・・はたまた「人生50年」・・・そろそろ終末じゃと日頃から死に場所を選んでいたのか。そうそう「人生80年」・・・運よくそこまで生きられたとしても、最期の少なくとも10年は想うに自由な活動は不可能であるからして、これからの10年間が「健康年齢」ということになりましょう。そうです・・・・・・そろそろ「終活」を考えろということです。身の回りの整理(猫の額ほどの財産・ネットや各種クレジットカードなどの暗証番号)、延命処置の拒否(脳梗塞や心筋梗塞で倒れた場合、15分間は救急処置をしないし、救急車も呼ばない)、葬式はしない、戒名も法名も不要(白洲次郎は「葬式無用戒名不用」という遺言を残した)、火葬後の骨は海でも川でも山にでも撒く(関寛斎の妻は遺言で「葬儀は、いま行わないでほしい。良人の寛が死んだときに一緒に執行してもらいたい。二人の死体は洞穴にうめず、それによって草木をやしない。牛馬の餌とされることを望む」とした。)。この関寛斎の妻の遺書は、司馬遼太郎の「街道をゆく・北海道の諸道・15pp307~308」にある。つづく。7月28日。

●日本人の平均寿命が過去最高を更新。平成27年の日本人の平均寿命は男性が80.79歳(前年80.50歳)、女性が87.05歳(同86.83歳)。過去最高の更新は男性が4年連続、女性が3年連続。男女差は前年より0.07歳縮まり、6.26歳。男性の1位は香港で81.24歳。2位はアイスランドとスイス(2014年)の81.0歳で、日本は前年の3位から4位へ順位を下げた。女性の1位も香港で87.32歳。前年まで3年連続首位だった日本は2位で、3位はスペインの85.58歳。親仁も今秋には58歳・・・・・・信長の愛した「幸若舞」(室町時代の曲舞で能・歌舞伎の原型)の「敦盛」の一節・・・
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
そうです・・・・・・つい最近の戦前まで50歳まで生きれれば御の字(満足なこと)だったんであります・・・・・・から結構なことです。つづく。7月27日。

国際標準の獣医師養成など日本の獣医学教育には少なからぬ問題があるのも事実です。しかし下記のようなデータからすると、供給側よりも獣医師を受け入れる側の問題が浮かびます。食肉検査や伝染病予防・啓蒙の方法など、組織的な運営の見直しが必要ということです。県下で30万頭余の豚と牛の殺処分という甚大な被害を出した2010年(平成22)の口蹄疫発生の際、私の病院勤務の獣医師3名の援助提供を県庁に電話で申し出しましたが、その後何の連絡もありませんでした。病気の伝搬や拡大等、諸事情もあるのでしょうが、問題(重大伝染病)発生時には、民間の獣医師活用も一方策です。国柄によって家畜の飼養形態や食肉検査の基準等、さまざまでしょうが、内なる改革実施も不可欠ということです。つづく。7月27日。

世界動物保健機構のデータベースによると、日本の獣医師数はこの10年間でおよそ8000人増加し、現在は4万人弱です。2005年は30853人、2014年は39098人です。日本の獣医師一人当たりの家畜(牛・豚など)頭数は、2014年で346.4頭であり、この数字は米国の約31%(1112.7頭)、英国(1688.1頭)やドイツ(1462.8頭)、フランス(1159.6頭)などの先進国に比べても3~5分の1(20~30%)です。犬や猫でも、日本が493.6頭に対して、米国は約2倍(918.5頭)、その他の先進国は日本と同レベルです。これらの数字は、日本の獣医師数や職域の偏在が世界と比べて決して極端でないということです。逆に動物の数に比べて獣医師数が多いとも言えます。つづく。7月27日。

26日の日経39面の「獣医学部の新設 結論は来月下旬 文科省の設置審」・・・・・・「閉会中審査の焦点となった加計学園の獣医学部新設計画は、文部科学省の大学設置・学校法人審議会が認可を審査している。設置審は大学関係者や専門家らで構成され、日程や内容は明らかにされない。結論は8月下旬にも公表される見通し。(略)2018年度開設予定の審査は、加計学園が運営する岡山理科大も含めて68校が対象。岡山理科大の審査経過は明らかになっていないが、関係者によると、加計学園は設置審の指摘を受け、入学定員を減らして教員数を増やすなど当初計画を一部変更した。」とある。仮にもこの設置審議会を正式通過して獣医学部が新設認可されるようなことになれば、もうこれは安倍政権の自滅行為でしょう。腹心の友なら・・・・・・加計孝太郎理事長の「申請取り下げ」か、安倍ちゃんの「白紙撤回」の最終局面じゃないですか。7月26日。

前川・前文部事務次官が国会の参考人招致で陳述していましたが、獣医師を産むのに投ずる税金(私学助成金)は、一人当たり6年間で約1500万円だそうです。一人当たり1年間で250万円。(加計学園は募集定員減で修正申請しているようですが)。加計学園の場合、1学年160人の定員(学生数)では年間で4億円・・・・・・6学年揃えば年間、24億円もの税金(私学助成金)が投入されます。国公立大学も例外なく、全ての大学が入学金や授業料のみで運営されているのではないのです。われわれの税金が、それも多額が投資されているということです。つづく。7月26日。

国家公務員総合職(よく分かりませんが旧名は国家公務員Ⅰ種)試験、いわゆるキャリア官僚の卵の例年の合格者は約1500~2000人ほどで、採用者は500~600人のようです。(確かな数字かは少し自信がありませんが)。事務次官や審議官、秘書官などの要職の座に登れるスーパー官僚は、試験の成績がトップ10と言います。要は、総合的な人間力は別として、記憶力の才能としてはこれ以上の人間はいないだろうという輩さんたちに・・・・・・「記憶にない」を連発されると・・・・・・それも国会の場ですからね。安倍ちゃんは「知らぬ存ぜぬ」の一点張りを決め込み・・・・・・そうでないとこの窮地を乗り越えられないと「懸け」に出たようです・・・・・・その部下である官僚にも「記憶喪失仮病指令」を発令したようです税金を使った陳腐な茶番劇を見せられているようで・・・・・・中途でテレビ見るのを止めました。つづく。7月26日。

●閉会中審査・衆院予算委員会は、予測通りの言った言わずの「水かけ論」でした。真実はこうたろうという予測さえ見えませんでした。そもそも官僚、それも高級キャリア(スーパー官僚)の生命線は・・・・・・記録を残すことが仕事じゃないんですかね。政治屋張りの「記憶にない」を連発するようじゃ・・・・・・即刻首でしょう・・・・・・これが民意というもんですぞ。「記憶」もなければ「記録」もなければ、「カスリメモ」はごみ箱廃棄・・・・・・あるのはのり弁に、国民への背信と、安倍ちゃんへの忠誠心のみか。7月24日。

●「奈良の大仏様」はあまりにもスケールが大きすぎて語るに悍ましいばかりです。彼の太閤秀吉は「天正14年(1586年)、豊臣秀吉は天正地震を機に奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置された。しかし、慶長元年(1596年)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。このとき秀吉は大仏に対し『おのれの身さえ守れないのか』と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝える。慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。」とWikipediaにあります。後年の1614年、秀頼が梵鐘を造った折、鐘銘に「国家安康」と書いて、家康がこれを口実に大坂冬の陣を起こしたという、あの方広寺の譚です。ここで問題なのは奈良の大仏様と秀吉の大仏様の造り方の違いです。奈良の大仏様は鋳造なんですが、方広寺の幻の大仏は木彫の類だったようです。奈良の大仏様は銅が499トン、錫が8.5トン、水銀が2.5トン、金が440kg、炭が1194m、そして延べの人夫が実におおよそ260万人と言われています。当時の日本の全人口が600万人から700万人ほどと云われていますから、その造作の規模が知れたものです。秀吉は、本当は鋳造の大仏、それも奈良の大仏様より大きなものを造りたかったんですね。それが技術的に不可能だった・・・・・・どうやったらできるのかさえもはっきり理解できなかったんであります。当時の秀吉は九州征伐(1586年7月~1587年4月)の真最中で(小田原攻めは1590年)、それはもう、彼の権力が頂点のころでしょうから・・・・・・秀吉が存命中にしようとして出来なかったことは、有り余る子宝に恵まれるということと、この大仏鋳造でしょうか。つづく。7月23日。

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