●琵琶湖には、セタシジミを含め固有種の魚介が豊富である。鮎はコアユで、名の通り成魚でも小さく、10cmを少し超えたら成熟している。。ふつうの鮎のオオアユは川を遡上するが、コアユはしない。コアユは海に出ることなく琵琶湖が終生の住処である。小さくてもしっかりの子持ち腹で、子持オオアユのような身が脆くなるようではなさそうだ。料理人の腕前だろうが、甘露煮などで身を引き締めて提供してくれるのであろう。ビワマスもモロコもシジミも固有種である。鰻は残念ながら、放流された二ホンウナギが主流のようだ。問題は、鮒鮓のフナの種類だ。本来は「二ゴロブナ」(煮頃鮒・似五郎鮒)を利用するが、最近はめっきり漁獲が減り、ゲンゴロウやギンブナを代用するそうだ。「能登」の提供は、むろん「二ゴロブナ」で、他も全て天然。最近では、色んな魚種で養殖に力を入れているそうだ。賤ヶ岳から長浜への折り返しの途次、鴨など水鳥浮かぶ琵琶湖の岸で、作業着の青年がルアー釣りをしていた。夕刻なので仕事帰りの趣味のようだ。狙いは何かと問うと、「ブラックバス」との応え。「能登」の国友さんも「琵琶湖の漁師も本来の漁よりもブラックバスを獲って、行政から奨励金をもらうほうがお金になるそうです」と、半分冗談のように苦笑していた。琵琶湖固有種の保存と琵琶湖漁師の生活の糧の確保、これからが正念場なのだろう。つづく。10月28日。
●酒飲みだけあって、アテになる情報が欲しい。確率の高いのは、前述の太田さんの「居酒屋百名山」(新潮文庫)。全国100店の居酒屋が紹介されている。今回の旅の「能登」もそのひとつ。私は、本には読んだ年月日を書きこむことを常としているが、「居酒屋百名山」の250ページの右上に、「2013年10月29日PM4機中・彦根へ」と記入されている。前回の訪問はちょうど4年前となる。太田さんは、「長浜の朝はいつもこのあたりの散歩が楽しみだ。そこにある割烹『能登』は、北陸の料亭『能登』で修業した先代が名をもらい昭和47年に開店。30年ほど続いて一旦閉めたが、客の強い要望で一年半後に先代弟子だった今の主人により再開された。そのとき玄関先に設けた六席の小カウンターが私の気に入り席だ。」(平成25年5月1日発行・pp250~252)と綴り、2009年7月の文章(訪問)と文末にある。主人は国友重一さん。私が今回の旅の概要を話し、その日の最後に「国友の鉄砲資料館」に間に合わなかったことを告げると、主人が「私もそこの出身で、名字も国友です」と申すではないか。江戸期の最盛には80戸の鉄砲鍛冶屋さんが国友にいたそうですが・・・・・・と話すと、「それは知りませんでした。私の先祖も鉄砲を造っていたのかもしれませんね」・・・・・・と云う会話で、生ビールが空いた。説明は、私の拙文よりも太田さんの「百名居酒屋」を読んでもらいましょう。頂いたのは、「琵琶湖鮎の山椒甘露煮」・「琵琶鱒造」「本モロコなどの天麩羅」・「琵琶湖川海老唐揚」・「琵琶湖鰻蒲焼」・「二ゴロブナの飯鮓(鮒鮓し)」・「琵琶湖蜆汁」・・・・・・国友さんの腕に惹かれて、当然のように「自家製唐墨」に「キンキ煮付」も注文。珍しく酒は長浜の「七本槍」と、おススメの純米地酒。嬉しかったのは、カウンターからチラチラ見え隠れする、初回訪問時には居なかった、若い御弟子さんの姿。厨房に見習いの若者が居ると、安堵感が増し、杯がすすむ。弟子に技を教え伝えることは、料理人が手を抜いていない証拠だ。居酒屋に限ったことじゃないが。つづく。10月28日。
●旅のいちじつの終りは酒肴だ。これなくして旅は旅でなく、草臥れにすぎない。むろん、言い過ぎだ。旅先の一見さんは、なにを拠り所に暖簾を潜ればよいのか、未開の地だけに、依る術がない。と言っても定石があるにはある。食べログやネットの口コミが手っ取り早いが、案外に外れる。ガイドブックも信用できないが、もしタクシーの運転手や空港の関係者、立ち寄った昼食の店に訊いて、同じ店名が返ってきたら、その店の信頼度はグンと上がる。居酒屋放浪と云えば吉田類だが、(これは類さんに直接聞いたのだが)、行く店は類さんが決めるのではなく、放送局などが選ぶらしく、テレビで見るほど満足できない。(もちろん、それは例外のほうが多いのだろうが)。少なくとも○○○某区の串焼屋さんは、無愛想で味もボケていた。それならば・・・・・・太田和彦はどうだ・・・・・・太田さんの店選びは彼自身によるようで、自書に「昼間に繁華街に出向き、仕込み中の様子を路地から伺い、かつ酒屋さんに人気の店を訊く」と云う手間を使うのだと書いてあった。それだけに信用度は増す。つづく。10月27日。
●「小池劇場」の終焉だが、「排除」に関する記者質問に「プイ」。化けの皮が剥がれたのだ。百合に棘はないが、百合には猛毒がある。猫を腎不全で死亡させる程の劇毒である。百合の功罪。見た目は美麗だが、食すれば魂を抜取られる。百合の美勾に誘われて寄ってきた民進党の下男醜漢たち。こともあろうか、敗戦落選を百合の所為にしているのには、辟易どころか、大和魂の生恥そのもの。こんな輩に政治を委ねてきたかと思う、自分が悲しい・・・・・・デス。子供じみた政治屋の多いこと。所詮、国会議員は飯のタネであり、国や国民のことは五の次でしょうな。政治にはファジーなところが多々あろうが、根本の思想信条は白黒、明確にしなさい、させなさい・・・・・・ということを思い知らしめたことは、百合ちゃんの功でしょう。質問には誠心誠意応えなさい。ところで昨日の高校野球九州大会準々決勝、富島と延岡学園が勝利。ベスト4入りで春選抜のキップを8割がた手に入れた。午前はSOKKENで(麻酔処置があり6対6の6回表終了で帰院)、午後はサンマリンへ。数人の知り合いに気づかれましたが、これも息抜きであります。明日は気の抜けない準決勝・・・・・・デアリマス。10月26日。
●比例区の党派別得票数が何を物語っているか。自民党:18,543,989(33.28%)、立憲民主党:11,079,308(19.88%)、希望の党:9,669,240(17.35%)、公明党:6,974,040(12.51%)、共産党:4,403,981(7.90%)、維新の会:3,386,979(6.08%)、社民党:941,105(1.69%)、日本のこころ:85,552(0.15%)、諸派:643,365(1.15%)の得票数。立憲民主党と希望の党を足すと、20,748,548票で自民党を2,204,559票も上回っているのであります。かつ、安倍首相を信用していない国民は5割を超えるんでありますから、これが安倍自民党の一人勝ちなのか・・・・・・12万票を獲得して落選の人もいれば、1万6千票で比例復活の議員もいます。いちばんは小選挙区制の弊害なだけです。そうは言っても、負けは負けであります。元「妻はこころ」の旦那さんは希望の党の比例で当選しましたが、開口一番に、「憲法は前文から変えるべき」と鼻息荒く吠えている始末ですから、百合ちゃんの右翼の程の象徴でしょうか。今回の選挙で最も得をした、棚から牡丹餅の輩こそ彼でしょう。それにしても懲りない連中ですな。衆院・旧民進党、参院・民進党の議員さんたちは、はやくも言いたい放題の、そこらの居酒屋の酔っ払いオヤジが持論を展開、捲し立てているのと同じレベルの発言。好き勝手にせず、党やグループの思想・信条を明確にし、それに基づいて語りなさい。もっと言えば、政権を奪取して野田さんが投げ出した、その原因すら総括してないでしょ。それが諸悪の根源なんですよ。つづく。10月24日。
●台風で2日間順延された第141回九州地区高等学校野球大会がサンマリンとSOKKENスタジアムで開会された。サボってというか、暇を見て2試合をサンマリンで観戦した。都城東(宮崎4位)は九州学院(熊本2位)に3対2で辛勝。延岡学園(宮崎1位)は筑陽学園(福岡2位)に5対2の逆転勝ち。ついでながら「九州」とは、西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9国の総称。ですが、現在は福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・熊本の7県と沖縄で計8県。春夏の大会でそれぞれ8年に1回、いずれかだと4年に1回の開催である。明日はSOKKENで富島(宮崎2位)が文徳(熊本1位)相手に10AMの試合開始。他県に泊りがけで行かんですむっちゃが・・・・・・ですぞ。是非、足を運びましょう。残念ながら宮崎日大(宮崎3位)は興南(沖縄2位)に2対1の惜敗。10月23日。
●気象庁は、過去に甚大な被害を残した超大型台風を「気象庁命名台風」として歴史に刻印している。洞爺丸台風(昭和29年・1954)。狩野川台風(昭和33年・1958)。宮古島台風(昭和34年・1959)。伊勢湾台風(昭和34年・1959)。第2室戸台風(昭和36年・1961)。第2宮古島台風(昭和41年・1966)。第3宮古島台風(昭和43年・1968)。沖永良部台風(昭和52年・1977)。そのなかで最も名の知れた台風が「伊勢湾台風」であろう。1959年9月26日に潮岬に上陸し、伊回数湾を中心に死者4697名、不明者401名、負傷者38921名という、東日本大震災並みの被害をもたらした。(Wikipediaより)。最低気圧は895hPa、最大風速は75m/s(米海軍解析では85m/s)。今接近中の超大型台風は、そこまでの気圧や風速ではないが、停滞する秋雨前線と共謀して大災害を引き起こす可能性が高い。それにしても、上記の「気象庁命名台風」の全ては9月中の発生と日本上陸である。今回の台風はそれらから1カ月も遅く発生して接近中である。クライマックスシリーズも今日明日と雨天中止なら広島に大手がかかるという。私事ながら、きのうは握り飯に水筒、傘に、念の為の防寒を準備し、気持ち共々万端の用意でサンマリンに出かけたのですが、高校野球九州大会は生憎の中止。九州大会は順延するだけですが、全国の被害が出ないことを願います。10月22日。
- 信長が600挺注文した。当時鉄砲は堺などでも製造されたが、数発撃つと破損したと云う。国友の鉄砲鍛冶は丹念に分解して螺子の仕組みを研究し、かつ鋳造でなく鉄を打って造ったため頑丈
- 年に芭蕉が詠んだ。芭蕉は大津膳所の出身で琵琶湖をこよなく愛した。琵琶湖大橋を渡るとき自然に浮かんだのが「志賀の都・雄松が里・今津・長浜・竹生島・比良・息吹・長命寺」が歌詞
- →大事なことを失念。坂本は明智光秀が比叡山焼討の功で信長から城をもらった所。穴太は石積みの街である。その石垣を見ねば・・・と気負っていたのだが、それなりの所を散策しないと
- 写真は西塔の中心仏閣の釈迦堂。釈迦堂は、最澄自作の釈迦如来像があることからの命名。承知のとおり、叡山は信長の焼打ちで全焼。現在の建物は1595年、秀吉が弥勒堂を移築。弥勒堂は13
- 山は「特に比叡山の称。また、そこにある延暦寺の称。」(広辞苑)。最澄(伝教大師)は804年9月に入唐し、翌805年5月に帰国して日本に天台教学を広めた。最澄はここに僧の養成所を開き、法然