●野口英世の譚。明治維新から150年・・・・・・正確には明治元年から150年だろう。明治維新は幕末の騒乱(たとえば1853年のペリーの浦賀来航)から西南の役までか。明治元年の前年に生まれた英世が渡米したのは24歳の、ちょうど1900年のことである。素寒貧の英世は渡航の工面に難儀したのは当然。血脇守之助の知人の姪子・斉藤ます子から結婚を条件に、その支度金として2百円を貰ったのだが、それをほぼ呑み代に費消したのだから凄い。横浜海港検疫所の仲間との送別会を催し、二十数人を呼んで身銭を切った(自腹で払う)のである。場所は当時の横浜でもっとも格式の高い伊勢佐木町の「神風楼」という店。アメリカには行かなくてはならないが肝心の金を使い果たした。さて、どうする。英世はまたまた血脇に泣きつき、血脇は高利貸しから200円を用立てたと云うのだ。血脇は衣類から家具他をも抵当にいれていた。周知のように彼女との結婚はなかった。(渡辺淳一著「遠き落日・下」pp283~290)。明治の前半から1900年ころの1円は、何を基準にするかで異なるが、概ね4千円から2万円と云う。※明治時代:慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間。実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた(Wikipedia参照)。つづく。1月12日。
●野口英世の譚。モノに光と影があり表と裏があるように、ヒトにも華やかさもあれば他人には言えぬ破廉恥な面もある。野口英世は自堕落で借金魔であった。小さい時から無心が上手な集り魔であった。小学校から高等小学校まで同級生の八子弥寿平からが最大の集りで、その金品は当時の金で千円、今の価値なら2~3千万円になるという。英世が日本に帰国したのは1915年9月5日で、3日後の8日に会津に帰郷した。英世は帰国に際して3個の高級の金の鎖の時計をアメリカ土産として持ち帰った。恩師の小林栄、血脇守之助、そして幼馴染の八子弥寿平へのものであった。歓迎の中、英世はその時計を渡すために八子宅を訪れた時、八子の父は他界していたが、存命の母親は「八寿平、ほんなもの、もらったらだめだ。」と息子(八寿平)の手から時計を奪いとり英世の前へ投げ捨てた。さらに、「ほんなもんで、いままでおらんぢがら持ってった銭の帳消しがでぎっど思ったら大間違ぇだ。あんだは八寿平の人のいいどごさつけごんで、どんだけ家から奪りあげだが。わだしの夫は、おめごど恨んで死んでった。あんだのおかげで、家もおれだぢもなぁんぼ難儀しだが・・・・・・」「帰れ、出でげ、泥棒・・・・・・」「こんな泥棒、早ぐ追い返せ・・・・・・」と罵られた。場は完全に白けた。(渡辺淳一著「遠き落日・上」pp81~87・「遠き落日・下」pp160~162)。つづく。1月10日。
●きょうから「西郷どん!」のはじまりだ。年末と正月の4日間で林真理子の原作3巻を読破。これで居酒屋談義にはついていける。と同時に大河は視なくてすむ。あらすじは、西郷隆盛の長男・菊次郎(1861~1928・奄美の愛加那との子供)が第2代京都市長に就任した際、高級助役を要請した川村鉚次郎の求めに応じて西郷の生涯を語る形式である。林真理子がこんな立派な歴史小説が書けるのかと見直したが、それもそのはず、過去に柴田錬三郎賞(1995年)、吉川英治文学賞(1998年)を受賞していた。最後には6ページに及ぶ参考文献が掲げられていた。かなり真実をついた小説と云うことだ。鹿児島の城山には2度ほど行き、下加治屋町や草牟田、甲突川、集成館、城山、岩崎谷などの地名は何度も見聞きしたが、真剣には訪問していない。近々暇を見て出かけるか。1月7日。