●坂の譚。さだまさしの「無縁坂」・・・・・・沁みる歌ですね。その無縁坂ですが、長崎ではなく、東京にあります。坂に住所はないでしょうが、場所は東京都台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂です。不忍池から旧岩崎邸庭園に沿って登りきると、東京大学医学部に突き当たります。さだまさしがなぜに無縁坂を選んだのか・・・・・・私の調査では未だ不明ですが、歌詞に「忍不忍無縁坂」とありますから、まさか「不忍池」からの派生ではないでしょうね。そもそもなぜに「坂」の観光かというと、司馬遼太郎の「街道をゆく」の「本郷界隈」に多くの「坂」が登場します。それじゃということで、興味のある坂、無縁坂と菊坂のふたつを選んで行って観ました。はじめの無縁坂ですが、上野の山から不忍池を横切って、不忍通りに出、「横山大観旧宅及び庭園」を通過して湯島方面に百メートルも進むと、そこが「無縁坂」の上り口です。ちなみに最初に無縁坂を有名にしたのは、森鴎外の小説「雁」だそうな。(司馬遼太郎「街道をゆく・37・本郷界隈」の「無縁坂pp109~121」・朝日文庫)。つづく。3月23日。
●エミール・ビュールレ(1890~1956)展の譚。2008年2月10日の盗難事件の4点、『赤いチョッキの少年』(1894/1895 ポール・セザンヌ)、『リュドヴィック・ルピック伯爵と娘たち』(1871 エドガー・ドガ)、『ヴェトゥイユ近郊のひなげし畑』 (1879 クロード・モネ)、『花咲くマロニエの枝』(1890 フィンセント・ファン・ゴッホ)も今回の展覧会に集結していた。それでもなお主役を演じたのは、モネの睡蓮・「睡蓮の池、緑の反映」である。1920年~26年に描かれた作品で、200×425cmの大作である。この時期のモネは一連の睡蓮シリーズを額装の観賞画でなく、装飾画を意識していたから、大作となった。モネの生涯で描かれた「睡蓮の池」は200点を超える。そのうちの約20点が日本にある。前日、国立西洋美術館の松方コレクションの額装の睡蓮を鑑賞したばかりだっただけに、今回のビュールレコレクションの美しさに圧倒された。久々に味わった純真の感動であった。この展覧会には粋な計らいがあった。主役の「睡蓮の池、緑の反映」は最後の展示になっており、大広間に一枚だけが飾られ、入場者が自由に写真撮影することが許された。この種のサービスは珍しいが、これは所有者の好意と著作権の関係と言う。モネは1840年に生まれ1926年に他界。既に70年の著作権は無効(パブリックドメイン)となっているから、所有者の好意が主であろう。ついでながら、著作権の有効年は国によって異なり、欧米では70年が主流である。日本は50年。それを70年に延長しようとする動きがある。この著作権、絵画など文化後進国の日本にとってはそれなりの負担を強いられている。年間、8000億円以上の著作権料を海外に支払っているのである。それにしても50年、70年という著作権の期間が長いか短いか・・・・・・いずれにしろわれわれ市民にとってパブリックドメインの言葉は響きが心地良い。3月22日。
●戦争特需の絵画蒐集家、エミール・ビュールレ(1890~1956)。ドイツ生まれのスイスの武器商人。第二次世界大戦中、ナチスばかりでなく”平等”の兵器を売ったが、「ナチスに売りさばく兵器商人」の顔と、ドイツ・ナチスが”非芸術”との烙印を押された印象派に魅せられ、「絵画を買い続けた蒐集家」という二つの顔の持主である。戦前の1934年ころから印象派を中心に買い始めたが、コレクションの中にはユダヤ人から略奪したものもあった。(13点あり、返却後、9点を買い戻した)。「血で塗られた絵画」とも揶揄される所以である。作品の質もさることながら、世界の注目を集めたのは、2008年2月10日の、武装窃盗団による盗難である。『赤いチョッキの少年』(1894/1895 ポール・セザンヌ)、『リュドヴィック・ルピック伯爵と娘たち』(1871 エドガー・ドガ)、『ヴェトゥイユ近郊のひなげし畑』 (1879 クロード・モネ)、『花咲くマロニエの枝』(1890 フィンセント・ファン・ゴッホ)の4点の当時の価値は約175億円だった。いずれも2012年までに発見、回収された。今回の国立新美術館の「ビュールレ コレクション 至上の印象派展」は彼のコレクションの一部であるが、今回の来日品64点のうちの半数が日本初公開であり、かつこれだけの傑作が日本で一同に展覧されることは、今後はないだろうと言う。5月7日までの開催、今からでも遅くはない。つづく。3月19日。
●「松方コレクション」とは、松方幸次郎(1886~1950)が1916年から10年間にわたってヨーロッパで買い集めた絵画を「国立西洋美術館」で保管展示しているものをいう。いずれ日本に持ち帰ろうとしていたが、1927年の世界恐慌や第二次世界大戦を経てフランス政府の所有(イギリスで収集したものは火災で消失)となり、その後日仏友好の証としてフランス政府が1959(昭和34)年、日本政府へ寄贈返還した作品群である。フランス政府の所有管理となったのは敵国資産による。返還の条件に「国立西洋美術館」の設立があった。そのためか、本館の設計者はフランス人のル・コルビュジエ(1887~1965)であり、2016年には世界文化遺産に登録されている。彫刻から家具やタペストリーまで、彼が買い集めた作品は1万点であり、うち浮世絵8千点は東京国立博物館に所蔵されている。松方幸次郎の父は、内閣総理大臣を務めた松方正義である。幸次郎は、東京大学予備門を中退(放校処分)した後1884年(明治17)、アメリカへ留学。エール大学で法学の博士号を取得し、1890年に帰国。帰国後は首相となった父・松方正義の秘書を務めた後の1896(明治29)年、川崎造船所の社長に就任。これは正義の出身が創業者の川崎正蔵と同じ薩摩で、かつ旧友であったことから。幸次郎の留学費用も川崎が負担した。松方の川崎造船は、第一次世界大戦(1914~1918)で船舶需要が高まったため積極的に業績を拡大し、巨万の富を得た。美術品収集の原資がこれである。つづく。3月19日。
●今月の旅は東京でした。24歳から28歳までの4年間、東京に住んでいましたが、ド貧の学生でしたから、東京は素人同然の観光オンチです。就職してからも開業してからもたびたび上京していますが、東京のビッグマスからしたら、わたくしの観光歴などミミズの小便です。そこで今回はゆるりと美術館なんぞを回遊してみようと考えたのです。幸いにもビッグネームの画家の展覧会が目白押しでした。初日、先ずはちんちん電車(都電荒川線)で荒川区の「吉村昭記念文学館」→おとなり(かっぱ橋)の「池波正太郎記念文庫」→上野の「国立西洋美術館」→上野池之端(旧岩崎邸庭園)の「無縁坂」→本郷4~5丁目の「菊坂」→東大農学部(本郷弥生)の「ハチ公」(「上野英三郎博士とハチ公像」)を巡り(初日終了)→(2日目)→六本木の「国立新美術館」→竹橋の「東京国立近代美術館」(2日目終了)→(3日目)神田神保町の「古本屋街」→帰路・・・・・・という、記念館と美術館と「坂」…巡りの旅路でした。つづく。3月18日。
- 供え物など一切なかったが、綺麗で大事に可愛がられているようだった。想いっきり「ハチ、ハチ」と何回も連呼して、体を撫でまわした。今回の旅は徒歩と電車のみで、一度たりともタク
- 「ハチ公」へ挨拶。さすがは天下の東大。ハチ公は四方から目映いばかりのスポットライトを浴びていた。今世界の秋田犬の登録数は6千頭余りで、日本のそれは、そのうちの3分の1と云う。
- 上野の「国立西洋美術館」と池之端の「無縁坂」。日比谷線を上野で降り、パンダと桜で有名な上野恩賜公園へ。いつのも西郷さんに挨拶して、その傍の「彰義隊」に礼拝。ちなみに吉村昭
- →「松方コレクション」を鑑賞し、その後は不忍池を横断して「無縁坂」へ。その後の足跡は、東大医学部を横目に赤門から本郷通に出、お茶の水方面へ少し下って「菊坂」へ。そのまま下
- →「高野長英」、「羆嵐」など頗る多数。徹底的な調査に基づいた記録文学小説の第一人者。都電荒川線の始発駅・三ノ輪橋に着いた電車は「ちんちん」と音を鳴らした。辞書には、「合図
- こと」とある。この電車もたしかに”ちんちん”鳴らして”何か”を意思表示した。多分に終点の意味だったのか。ワンマンなので運転手の仕業。澄んだ響きで旅情たっぷり。このちんちん