●樋口家と夏目家の関係の譚。樋口一葉(1872~1896)の父・樋口則義と夏目漱石(1867~1916)の父・夏目直克は上下司の関係であった。樋口則義は南町奉行は以下の八丁堀同心であり、漱石直克はその上役の町方名主(神楽坂から高田馬場あたりまで十一カ町の行政責任者)であったという。直克は学がなく、反対に則義は学があって働き者であり、直克は則義を片腕として調法がった。それを良いことに則義は直克から金を借りたという。そのうち漱石の長兄の夏目大一と一葉の縁談がもちあがったらしいが、直克は則義に今以上に借金されてはかなわないと思い、それ以上は発展しなかったという。もしものもしかしたら、長兄ではなく、漱石本人と一葉が所帯を持っていたら・・・・・・なんて想像すると、愉快でならないのですが。一葉の結核も癒えたかもしれなし、両者の遺伝子をもって世界に冠たる大小説家が生まれていたらと考えると・・・・・・やっぱり愉快ですな。(以上、司馬遼太郎・街道をゆく37・「本郷界隈」のpp181~193の「一葉」・朝日文庫を参考)。3月31日。
●坂の譚。「菊坂」の近隣には夏目漱石旧居跡や石川啄木臨終の地、直木三十五が止宿した菊富士ホテル、その他にも坪内逍遥旧居跡などが点在する。わが郷土の偉人である若山牧水も石川啄木を見舞い臨終にも立会っていることから、きっと牧水もこの坂を下り上ったことであろう。当時、正岡子規も近所の寄宿舎に居たから、親友の漱石も一度ならず子規を訪ねたであろう。その他、大勢の作家や有名人が徘徊したであろうことが、容易に推察される、由緒ある名所である。そのなかでも最も哀憐を誘うのは、やはり夭逝した天才女流作家、(もしかしなくても紫式部以来の)、樋口一葉である。「たけくらべ」ほかの小説を手にしたものの、明治前半の文体を読みこなすことは、私の力では無理難題であり、直ぐに放棄して諦めたのでありますが、何と言っても、彼の森鴎外も幸田露伴も、そしてその後の夏目漱石も彼女を絶賛しているからには、どうしても彼女が確かに歩いたであろう、この「菊坂」を訪問する必要に駆られたのであります。つづく。3月31日。
- 樋口一葉は1872年(明治5)、東京に生まれ、住居を転々とし、ここ「菊坂」に越したのが1890年9月と云うから、一葉が18歳の時。しかしこの菊坂も3年程しか居なかった。当時は、家長として和服
- あろうが。それも私の実家には小さな坂から急な山の坂まで数多くの坂がある。そんなこんなで「無縁坂」を自身の眼で確認することは重要なことである。事前に調査したアクセスマップを
- 最初に感動した歌である。田舎から出て、はじめて親から離れ、ちょうど「五月病」で涙していた下宿部屋で聴いたのがこの歌だ。叔母さんの入学祝にもらったカセットテープレコーダーか
- 行っている。知る限りでは美術館や博物館巡りはないようだが、宮崎では生涯、観ることのない名画に触れる機会の企画も斬新ではないか。宮崎に限らず地方の人口減少の大きな要因のひと
- 南郷の人口まで減るというから、寂しさをとおりこして悲しい。左の写真は上野の山の国立西洋美術館。敷地内には写真のロダンの彫刻などが来館者を待つ。館内は、平日というのに大勢の
- 2045年の宮崎県の人口は82万人まで減少するとの予告をつい先日、厚生省が発表した。西米良村は今の半分の500人まで減るからただ事じゃない。私の出身地も同様で、限界集落そのものだ。美