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今週の親仁ギャグ・2018年5月13日(日)~5月19日(土)

●先週の掲示写真の上段右は九度山真田庵である。高野山に上る中途で立ち寄る。真田庵は、真田昌幸(1547~1611)とその子・真田幸村(1567~1615)が関ケ原の戦い後、家康の命によって閑居された場所である。当初は高野山だったらしいが、冬の寒さを凌ぎづらく、麓の九度山で生活した。幸村(信繁)は大坂夏の陣までの14年間、父の昌幸は11年間ここで過ごした。幸村の子・大助(1603?~1615)もここで生を受けた。真田庵は善名称院という寺院であり、境内には昌幸の墓もある。近くには「九度山・真田ミュージアム」がある。この九度山から高野山までは車で30分。九度山の名称の由来は、高野山に真言宗総本山を開山した空海が九度山にいる母親(慈尊院で生活)に会うために月に9回、この麓までを往復したということから。当時の高野山は女人禁制であったから、空海が山を下りてきて会うしかなかった。つづく。5月14日。

●同じ留学僧でも最澄(伝教大師・767~822・生まれは滋賀=志加の古市郷であり、出自は「諸藩」=外国系)が国のお抱えであったのに対して、空海(774~835)は一沙門でしかなかった。しかし空海の父は讃岐国多度郡の豪族で郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏(大足)の娘(あるいは妹)であったことから、空海はもしかしたら親の金力とコネで遣唐使のメンバーに入ったのかもしれない。当時は桓武天皇(737~806)の在位(781~806)である。遣唐使の目的は唐の文化移入や仏教の経典などを書写して持ち帰るほか、唐からの渡来人を招聘させることにあった。鑑真和尚(688~763)も5度も渡航に失敗し(失明も)、6度目にようやく渡日に成功し、その生涯を日本で終えたひとりである。鑑真は奈良仏教の荒廃を救う戒律を定めるために聖武天皇(701~756・在位724~749)の命によって唐より招かれた高僧であった。これは井上靖の「天平の甍」に詳しいが、この時、命を受けたのが普照(入唐10年目に鑑真に拝謁、754年に鑑真に従って帰国・生没年不詳)と栄叡(~749・唐で死去)の両僧であった。鑑真と同じ時に日本に帰ろうとしたのが彼の阿倍仲麻呂(717年渡唐・698~770)であるが、仲麻呂は海難でついに日本へ帰れなかった。しかし仲麻呂は、その優秀な才能からも玄宗帝(685~762)の寵愛を受け、唐朝の高官として活躍した。仲麻呂は李白(701~762)や王維(701~761)らとの交流もあり、むろん絶世の美人・楊貴妃(719~756)とも会っていたであろう。このように遣唐使の時代、すでに日中両国間の人材交流は深く浸透していたということだ。当時畿内の住人の3割は「諸藩」であり、そうであることが積極的に吏員に採用されたつづく。5月13日。

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