●脱線の脱線の大脱線ですが、水軍時代の瀬戸内海の船の航行がどのような状況であったのかが興味の根端であります。瀬戸内に浮かぶ海岸線(外周)が100m以上の島の数は全部で727であります。その数多い島嶼の合間を縫いぐるっていたであろう水軍。それを創造しただけでも楽しいのでありますからフェリーに乗り瀬戸内横断旅行をした訳です。それなのになにせ夜間航行ですから周りの小さな島々まではとんと拝むことが不可能でした。夜中に2度ほどデッキに出ましたが凪なのに強風が吹きつけ海面を覗こうものなら、吸い込まれて落ちそうな感覚に襲われました。実際、私が乗った数日後の新聞に男性がフェリーから転落したのか、行方不明との記事が載っていました。結論は、瀬戸内海の島々の地勢と景観を堪能するなら別の手段を選ばないとダメですよ・・・ということです。ちなみに日本国の島の数は本土の5島を含め6852(北方領土含む離島が6847)であります。これまた余談ながら国際的な大陸の定義(曖昧ですが)はオーストラリア大陸よりも小さければ、それは島です。9月12日。
●江戸末期までは駕籠や大八車(江戸前期に登場)が輸送の手段であった我が日本民族がどれほどの船を浮かべていたか??? それでも朝鮮半島や中国大陸から造船技術を習得したであろうから、それなりの規模はもっていたのでしょう。高田屋嘉兵衛も日本海やオホーツク海で北前船を滑走させていたのだから。中国大陸沿岸やそれ以南の国々まで出向き海賊行為を極めた水軍ですから、海の大八車のレベルでなかったことは確かでしょうが。ある辞書の人力車は、「1869年(明治2)東京日本橋で料理人をしていた和泉要助が蓮台(れんだい)や西洋の馬車にヒントを得て考案,知人の鈴木徳次郎,高山幸助との連名で,東京府に製造と輸送業務を出願して営業許可を得,翌70年3月,日本橋南詰西側の高札場のかたわらに〈御免人力車処〉ののぼりを出して営業を開始した。」とあり、なんと日本人の発明だったのであります。私も浅草寺でお世話になりましたが。つづく。9月12日。
●広辞苑の水軍②は「中世、瀬戸内海・西九州沿海に本拠を持つ、水上戦法や操船にたけた地方豪族。戦国時代には大名の各陣営に加わる。海賊。」とあり、Wikipediaによれば、「『水軍』の呼称は江戸時代以降に用いられるようになった表記であり、それ以前の古文書では『海賊』と呼ばれていた。海賊という名称には海の盗賊としてのネガティブなイメージが強いが、陸で武力を持った武士たちが政権(武家政権)の成立に至ったのに対し、海の武士団である海賊衆は権力を持たないままだったため、海賊の名称は無法者の意味がそのまま定着したとも言われる。 そのため、海賊は権力に組みこまれることを好まない独自性の強い立場であったが、戦国時代になって台頭した戦国大名に対して水軍力(海の治安維持や武力)を提供できるほど組織化された海賊衆が『水軍』と呼ばれる。(略)島国日本では隣国の朝鮮と同様に、古代から沿海部に居住する海民が水上兵力として活躍した。古代ヤマト政権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちであった。古代の日本においては国家の背骨は大阪湾、瀬戸内海にあり、紀ノ川流域の紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、後背に木材産地を確保した大豪族も独自の水軍をもって活躍した。(略)織田信長は勢力拡大の過程で志摩の守護九鬼氏出身の九鬼嘉隆を臣属させ、九鬼氏が率いる九鬼水軍を主体とした水軍を編成した。」・・・・・・とある。水軍で名だたるものが戦国時代には毛利氏に従った村上水軍や、熊野水軍、そして上記の九鬼水軍などだが、その数はまさに枚挙にいとまがないほど多い。つづく。9月12日。
●瀬戸内の船旅には以前よりずっと興味がありましたね。13世紀から16世紀にかけて瀬戸内などを中心に活躍(暗躍)した海賊。いわゆる倭寇もその一部に属します。倭寇は前後期に分けられ、前期は14世紀前後であり、海賊の人種(民族)は瀬戸内海や北九州の日本人に一部高麗人が含まれ、朝鮮半島、中国沿岸部と一部の内陸、東アジアの諸地域まで活躍の範囲がありました。後期倭寇の活躍は16世紀であり、後期倭寇の中心は密貿易の中国人でありました。中国人の占める割合は7割であり、残りの3割に壱岐対馬、松浦、五島、薩摩の日本人であり、なかにはポルトガル人もいたそうです。後期の倭寇は、実質的には倭寇と呼べないくらい密貿易の中国人が大きく幅を利かせていたのですが。事実、倭寇の親分(首領・元締め)は中国人(明国)の王直(?~1557)であり、王直が本拠地としたのがなんと長崎の五島でありました。これまた史実でありますが、明が滅んだ原因のひとつが「中国製倭寇」だったのです。つづく。9月11日。