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今回の日向灘地震を考えてみようーその2-

今回のテーマは、南海トラフのズレが連動し、未曾有の、前代未聞(有史にない)の巨大地震の発生する可能性が如何程かということです。

私奴の結論を早走りで言うと「自分の命は自分で守れ、国をはじめ誰も守ってはくれないぞ」であります。そもそもの疑問は、宮崎市をはじめ多くの自治体は、南海トラフ連動巨大地震の可能性を吹聴、喧伝しながら、一方で、日向灘の沿岸近くに住宅地や商業地を開発し、それらから固定資産税等・事業税等を徴収していることです。市民の命などは二の次なのです。そんな行政に命を救ってもらおうという期待そもそもが愚の骨頂なのです。

以下に1498年以降に発生したM6.5(ここのマグニチュードは日本気象庁マグニチュード=Mj)以上の日向灘地震(一部豊後水道地震などを含む)を列挙してみました。(Wikipedia 「日向灘地震」より)。

①1498年7月9日(明応7年6月11日)豊後水道M7.0~7.5 ②1662年10月31日(寛文2年9月20日)日向灘M7.6~7.9 ③1769年8月29日(明和6年7月28日)豊後水道M7.8前後(異説あり) ④1899年(明治32年)11月25日 日向灘M7.1 ⑤1899年(明治32年)11月25日 日向灘M6.9 ⑥1909年(明治42年)11月10日 宮崎県西部 M7.3~7.6 ⑦1923年(大正12年)7月13日 九州地方南東沖 M7.3 ⑧1929年(昭和4年)5月22日 日向灘 M6.9 ⑨1931年(昭和6年)11月2日 日向灘 M7.1 ⑩1939年(昭和13年)3月20日 日向灘 M6.5 ⑪1941年(昭和16年)11月19日 日向灘 M7.2 ⑫1961年(昭和36年)2月27日 日向灘 M7.0 ⑬1968年(昭和43年)4月1日 日向灘 M7.5 ⑭1969年(昭和44年)4月21日 日向灘 M6.5 ⑮1970年(昭和45年)7月26日 日向灘 M6.7 ⑯1984年(昭和59年)8月7日 日向灘 M7.1 ⑰1987年(昭和62年)3月18日 日向灘 M6.6 ⑱1996年(平成8年)10月19日 日向灘 M6.9 ⑲1996年(平成8年)12月3日 日向灘 M6.7 ⑳2019年(令和元年)5月10日 日向灘 M6.3 ㉑2022年(令和4年)1月22日 日向灘 M6.6 ㉒2024年(令和6年8月8日)日向灘 M7.1

有史以来とは、現実的には古文書の記述に頼らなくてはなりません。文字通り、有史以来最も大きな超巨大地震は1707年の「宝永地震」とされています。2011年の東日本大震災の発生メカニズムの解析から、この宝永地震の震源域※は従来の足摺岬沖よりもさらに西の、日向灘沖までの700kmではなかったという説が浮上しています。この宝永地震発生の49日後の11月23日(新暦12月16日)に起ったのが富士山の宝永大噴火です。※震央は東海道・南海道沖(紀伊半島南端沖)で、津波の高さの最大は土佐久礼の25.7m(遠州灘・熊野灘・土佐湾)

1707年の宝永地震とその49日後の富士山の宝永大噴火以降、下図にあるように4つの大きな地震が発生しています。1854年の安政東海地震と安政南海地震、1944年の昭和東南海地震、1946年の昭和南海地震の4つです。安政東海地震(震央は東海道沖=渥美半島南方・震源域は南海トラフ沿いの東側半分・M8.4・津波はとくに熊野灘で最大22.7m)は1854年12月23日に発生し、その約32時間後に安政南海地震(震央は南海道沖=室戸岬と潮岬の中間、紀伊水道南方・震源域400km・M8.4・津波はとくに紀伊水道と土佐湾で最大16.1m)が起こりました。この約32時間の時間差で発生した安政地震は所謂「半ワレ」であったという結論です。

この「半ワレ」が起こったとされるもうひとつが、残る2つの地震です。1944年12月7日に発生した昭和東南海地震(震央は熊野灘・震源域は三重県尾鷲市沖約20kmから浜名湖沖・M7.9・津波は8~9m)とその2年後の1946年12月21日に発生した昭和南海地震(震央は和歌山県南方沖・震源域は四国沖=足摺岬沖から紀伊半島沖=潮岬沖にかけての南海トラフ沿い・M8.0・津波4~6m)との関係です。

繰り返しますが、例として挙げた上記の4つの地震は「半ワレ」、宝永地震は「全割れ」です。

※その他、「一部割れ」「局所割れ」の区分用語も存在します。8月8日の日向灘沖地震が、仮に2倍に拡大された南海トラフ超巨大地震の震源域内だったと想定すれば、「局所割れ」の範疇なのでしょうか?

回りくどいかもしれませんが、数日の間、私奴のつぶやきにお付き合いください。

下の2枚の写真はヤフーニュース(出典:内閣府防災情報)から転写しました。

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