●仰々しい隊列で日光を目指した家康の棺。中が空っぽということはなかっただろうが、少なくとも遺骸はなかった・・・・・・との説が有力であるそうな。家康は別として秀忠はじめ歴代の徳川将軍の遺骸は菩提寺である芝の増上寺に埋葬された。12代将軍の家慶(1793~1853・在位は1837~1853)の墓を掘り起こしたら、まだ生身の人間に近い姿だったという。そう、腐敗防止が施してあったというのだ。使用されたのは高価な朱肉で、それも数十キロも。朱肉の成分である硫化水銀がその役目を果たすそうな。人間の遺骸が果たして丸一年でどの程度腐敗が進行するのか。土壌の環境にもよろうが完全には白骨化していないであろう、それも江戸幕府を開府した家康の遺骸を分離してまで改葬することはないであろう・・・・・・と言うのである。言わずもがな改葬は「いったん葬った遺骸を、改めて他所に葬りかえること」(広辞苑)であり、分霊は「ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊」(同)であり、勧請は「①神仏の来臨を請うこと。②神仏の分霊を請じ迎えてまつること」(同)であります。東照大権現として神(神格化)となった家康は遺言通り、分霊されて日光に勧請されたということです。つづく。10月27日。
●ここで登場するのが家康の遺言。「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」(『本光国師日記』による)である。家康が駿府城で死を遂げたが1616年。大坂夏の陣の翌年である。①遺骸は久能山(東照宮)に葬られ、②葬儀は増上寺(東京芝)で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられ、③位牌は大樹寺に立てられ、④一年後に日光東照社に分霊されたのである。そこで問題なのが久能山に蹲踞の姿勢で埋葬された遺骸を、丁度一年後に掘り起こし、場合によっては腐敗が進行中の遺骸を分断して、大名行列を組んで日光まで運び改葬したのか・・・・・・という大問題があった。つづく。10月27日。
●高杉晋作は萩で生まれ、下関桜山にて肺結核で病死し、下関郊外の吉田の東行庵に埋葬された。その師である吉田松陰は萩で生まれ、江戸で斬首され、直後に豊国山回向院に埋葬され、1863年に世田谷区若林の今の松陰神社(1882年=明治15年創建)に改葬された。ついでながら坂本龍馬は高知城下で生まれ、京の近江屋で京都見回り組に暗殺され、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)に埋葬された。上記の場所で私が訪問していないのは東京の回向院と松陰神社(萩の松陰神社には行きました)です。そこでそこで今回の旅のメインテーマである日光東照宮は徳川家康の墓があるが、それはいったいいかなるものなのか・・・・・・探求してみましょうか。つづく。10月26日。
●今月の旅は日光と東京でした。宮崎空港→羽田空港→(京急)→浅草駅→(東武伊勢崎線)→下今市駅→(東武日光線に乗換)→(東武)日光駅→(レンタカー借)→第二いろは坂(上り)→明知平→華厳の滝→第一いろは坂(下り)→鬼怒川温泉泊(1日目終了)→日光東照宮→第二いろは坂→中禅寺湖→第一いろは坂→東武日光駅(レンタカー返却)→浅草駅→(2日目)東京散策→羽田空港→宮崎空港・・・・・・の旅程でした。なんといろは坂を二往復した稀有な旅でした。つづく。10月22日。