●お伊勢参り。本来ならば参詣の前に詳細な調査をしなければならないのでしょうが、そのような性分には生まれていないので事後調査になってしまいます。2度と行くこともないだろうに・・・・・・です。江戸時代(寛永15年=1638年からか)に始まったとされる「伊勢参り」。当時(1650年)の日本の人口は1781万人と云う。宝永2年(1705年)の伊勢参詣者は330~370万人で、人口は2769万人(1700年)。1771年は200万人(人口は1750年で3110万人)。1830年(文政13年=天保元年)には427万6500人(人口は1850年で3228万人)。江戸末期には13%もの人間が伊勢参りをしていたのだ。平成25年の式年遷宮の時の参詣者が1400万人超と云うが、それよりも多い割合で伊勢に詣でたことになり、当時のアクセスからしたら驚愕の数字である。12月1日。
●何故に伊勢参りを。輪廻転生やあの世を信じない私ですので、「七生報国」なんてとんでもありません。七生報国は、後醍醐天皇に仕えていた楠木正成が足利尊氏の軍に敗れ自刃した時の言葉。その意味は、「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国(南朝天皇家)に報いん」です。天皇家の氏神である伊勢神宮。もしやもしやですよ、あの世というものが存在したとしたら、そのあの世で先にこの世を立ち去った人々に、「あんたは伊勢に参ってきたのか」と問われ、「いや、行きませんでした」なんて応えたら、これは仲間外れにされるに違いないと思ったからです。動機が不純かもしれませんが、兎も角も参拝してきたのであります。この伊勢参り、江戸の昔から全国から多くの庶民が参拝したのであります。つづく。11月20日。
●「2・2・1」とは何ぞや。この歳になると葬式に行くことも少なくないが、神式か仏式かが少しく気に掛かる。半年前の地鎮祭でも2・2・1を忘れていて困った。(神主の儀礼はどうも一般人と違うようで真似てはならぬ)(要確認)。2・2・1は2拝、2拍、1拝のことで2拝の後に祈りごとを神に伝えるのだ。その前に行うのが手水だが、これまた複雑だ。右手に柄杓をもって先ず左手を清め、次に柄杓を持ち替え右手を清める。次いで再度柄杓を持ち替え左手で水を受け口をすすぐ。その後左手を清め、最後に右に持った柄杓で柄杓の柄を清める。最後は元の位置に柄杓を戻す。今回の伊勢参りでは平日なのに大勢の参拝客と観光客がゾロゾロ歩いていたが、手水については千差万別のようで、口をすすいでいる人間は稀のようだった。神前での無作法、これで御利益を望もうなんて失礼極まることだ。ところで伊勢市は1955年に宇治山田から改称したとのこと。それと関係あるのか、JRは伊勢駅ではなく伊勢市駅と少し変だ。近鉄の宇治山田駅の方がビッグ。つづく。11月19日。
●今月の旅は、「伊勢参り」に「東山魁夷展」鑑賞の、これまた強行スケジュールでした。旅程は宮崎空港→セントレア中部国際空港→高速船「ベルライン」で津市へ→高速バスで伊勢市駅へ→レンタカー借→伊勢神宮外宮→伊勢神宮内宮→(伊勢泊)→(2日目)横山展望台→(レンタカー返却)→宇治山田駅→近鉄特急→名古屋駅→新幹線のぞみ→東京駅→六本木国立新美術館・「東山魁夷展」屋→(東京泊)→(3日目)→都内物色・・・・・・でした。つづく。11月18日。
- 内宮に入る鳥居です。鳥居がいくつかあって、これから先は何度か一礼をします。鳥居をくぐって宇治橋を渡り、右に折れてしばらく歩けば目的の正宮に辿り着きます。中段右の写真が宇治
- 「おかげ犬」の話は(金毘羅さま同様)専ら有名ですが、なぜか犬ではなく猫がシンボルです。この「おかげ横丁」は十数年前に赤福さんが中心となって開発したそうです。外宮に比べ何十倍(
- います。伊勢市から東京まで3時間半もあれば余裕でしょう。名古屋駅からは新幹線が10分おきに発車しています。飛行機でひとっ飛びが最高でしょうが、神武天皇の手前、楽をしようなんて
- 瀬戸内海、大阪湾、紀伊水道をt経て熊野に入り、大和を制圧して橿原宮で初代天皇に就いたのが紀元(皇紀)元年です。紀元2600年が昭和15年でしたから、かれこれ2700年前のことです(神武東征)
- 間違いないでしょう。「上空1万メートルから見た地上百景」なんてあるのでしょうか。(要調査です)。しかし便利な世の中です。写真はセントレアから三重県都の津市まで伊勢湾を横断する
- 宮崎から羽田や関西方面に旅する時の飛行機の座席は進行方向左の窓側に座るのがお得です。富士山も見えれば北・中央・南アルプスも観れれば伊豆大島も見ることができます。むろん帰路