麗子像は一体幾枚程、遺されているのだろうか。Wikipediaを見るに、ざっと43作である。吾輩のような紙にペン書というものはなく、油彩、油彩でなくとも「紙にインクと水彩」、「紙に木炭とコンテ」、ほかにはクレヨンやパステルが使用されている。吾輩の作品のような彩色してないデッサンを加えればさらに増えるのであろうが、「麗子ハ風邪でたんぜんをかけて御はんをたべました」のようなコメントを書いたものは如何程、存在するのであろうか。希少価値が高まるというものだ。
ところでモデル、麗子の回想談話が遺されているので紹介しよう。
「小さい時のモデルはさぞつらかったでしょう、ときかれることがありますが、むしろ私にはモデルをして、父と二人で過ごした画室の生活は実に楽しいものでした。だまって坐っている傍らには父がいて、絵筆を動かしながら私が退屈しないようにと、面白い話を次々ときかせてくれたこともあります。父を訪ねてみえた方々が五、六人も父の後にならんで、じっと父の手もとと、モデルの私を見ている。そんな時には、私は眉一つ動かさぬ気で、大いに誇りを感じて緊張していたものです。自分の気持ちでは、私は父と一緒に制作している気でいたのです。しかし、つらいことが全くなかったわけではありませんでした。お友達が何人かで遊びに来ると、母がことわっている声が画室の中まできこえて来て、それは子供にはちょっと怨めしいことでした。父の方をぬすみ見ると、父は知らん顔をしているので、どうにもなりません。父はいつも『デコちゃんくたびれたらおいいよ』といってくれるのですが、モデル台の上に坐っている足がだんだん痛くなって来て、涙が出てくると、私は父の方を見ます。父は一心不乱に描いていて、まるで気がつきません。私が涙が出る程足が痛くなる時は、きまって父がいっさいを忘れて描くことに没入している時なのです。父は眼鏡をはずして眼を近々と画面によせ、いくらか口をとがらせてせっせと絵筆を動かしています。時々私の坐っているすぐそばまで顔を近づけて細かい鹿の子の模様をみつめ、また画布に向って一心に筆を動かしています。私はあきらめて、流れてくる涙を父に気取られまいと、大急ぎで天井を見つめて涙の流れるのをふせぎます。しかしその時には父の様子に、子供なりに感動しているのですから、かなしい気持ちなどはどこかへ消えてしまっているのです。」(『麗子像が出来た頃』1955年)
岸田麗子(1914-1962)。1920年作の「麗子ハ風邪で・・・・・・」は、麗子6歳時。この時も顔のデフォルメがみられる。最初の麗子像の作品「林檎を持てる麗子・ウッドワン美術館蔵」は、1917年4月5日制作(Wikipedia)。