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今週の親仁ギャグ・2019年9月22日(日)~9月28日(土)

河合継之助の譚山本五十六は長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれた。父親が56歳の子供なので五十六と名付けられたのは有名な譚。母親も45歳の高齢であった。山本は戊辰戦争で戦死した次席家老の山本帯刀の家を継いだことによるが、これは長岡藩牧野家15代の牧野忠篤の口添えがあったから・・・・・・1915年(大正4年・改姓届け出は翌1916年)のことだ。山本帯刀の上司は、一代で家老職まで登り詰めた河合継之助である。河合継之助、山本五十六の座右の銘「常在戦場」は、長岡藩牧野家の家風による。牧野氏は、長岡藩初代藩主となる牧野忠成は、三河牛久保が所領であり、徳川十七将に数えられた武将。1618年のことで、当然ながら牧野家は徳川幕府の譜代である。戦国の世、牛久保の牧野家は、徳川家の前の主は今川氏であり、西の徳川・織田氏、北方の武田氏と対峙していたので、いつ何時四方から攻め入られるか分からなかったので、「常在戦場」で領地を保守していたのである。つづく。9月23日。

●忘却の年になっると、「どこに書いてあったか」・・・・・・探し当てられないのには腹立たしいかぎりで、捜索欲は時に数日あるいは数週を跨(また)ぐ・・・・・・ことが多くなってきました。先週の「竜馬がゆく」の「蘭学塾」の譚。偶然というものは確かにあるものです・・・・・・枕元に「竜馬がゆく」の1~3巻を常在させておいて、例の件を捜索するのですが、(さだまさしの「雨やどり」ではありませんが)ぱらっと捲ったら偶然にも一発でその文章を発見したのであります。興味がある方は、「竜馬がゆく」の二巻(文春文庫・第27刷)の181~185ページをご覧あれ。先生は医者で、塾生は医者志望が多いのですが、この医者が実在していたかどうかは知る由もありません(司馬さんは1996年没・どこかでその真否を残してくれているかもしれませんが)。フィクションの小説では、この医者の講義は医学に限らなかったいうことで、竜馬が饅頭屋(のちの近藤長次郎・亀山社中の規則を破り切腹)に連れて行かれた時は「オランダの生体論」についての書物を翻訳していたそうです。その塾でのその時の竜馬の身分は聴講生となっております。ここだけの譚ですが、日本人として生を受けたからには、性を問わず、司馬さんの「竜馬がゆく」を是非読んでこの世を終えましょう・・・・・・もったいないですぞ。つづく。9月22日。

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