●「向田邦子の譚(こと)⑤・志和池昭一郎」
▲向田邦子について調べているなかで、向田邦子を旅行に誘った志和池昭一郎氏が宮崎県出身で、しかもあの「シルクロードブーム」の火付け役だったとは全く知らなかった。不勉強である。向田一行の犠牲者は4人であった。
▲向田邦子は事故死の6年前の1975年10月、乳癌の手術を受けている。その時の輸血に原因する肝炎や右腕の麻痺で、術後しばらくは左手で執筆していたという。その時のエッセイが連載「銀座百点」のひとつが有名な「父の詫び状」である。向田は術後、自分の体力の回復を確認するためか、大病で人生観が変わったのか、あるいは息抜のためなのか、アマゾンなど海外への取材旅行をするようになったという。台湾もその一環であったのだろう。
▲以下志和池昭一郎氏の業績や人間交流、事故についてWikipediaを拝借する。
「1976年に志和池自らが企画・出版した『アラビア半島』で出版業界に注目されて以来徐々に出版プロデューサーとしての頭角を現し始め、1980年に放送されたシリーズ・ドキュメンタリーの「NHK特集 シルクロード」や1981年7月に友人の一人だった篠山紀信と共に出版した『篠山紀信シルクロード』シリーズの企画などに携わり、当時の日本ではまだあまり知られていなかった中央アジアや中東諸国の民族や史跡、風景などを美しく取り上げた番組や写真集として日本中で大きな注目を集め、1980年代に起きた『シルクロードブーム』を作り上げた人物として有名になった。しかし、それから間もない同年8月22日、向田を誘っての取材旅行中に、台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故に遭い他界した。享年38。この事故では向田や志和池と共に同行していた義理の妹の秘書(当時26歳)と通訳担当の女性社員(当時24歳)も同時に亡くなっている。元々は友人の向田を誘って中央アジアや中東諸国へのシルクロードの取材旅行をプロデュースする予定だったが、旅行会社の手違いでキャンセル扱いになってしまい、急遽台湾の史跡や美術館などを巡る旅行に切り替えたと言う。その取材旅行の途中で墜落事故に遭ってしまった。この旅行には永倉も通訳として同行する予定だったが、志和池が別にプロデュースしていた入江泰吉のポスター展『大和路』の仕事を任されていたために旅行に参加できず、結果として難を逃れている。」。宮崎の逸材を失ったことも、何とも残念だ。
▲ところで彼の「異邦人」がリリースされたのが1979年10月1日という。風貌雰囲気ともに異国情緒たっぷり、それに色気もたっぷりの久保田早紀のあの歌声だ。妖艶といえばジュデ・ィオングの「魅せられて」(1979年2月)も流行ったころだ。こちらはエーゲ海だが。それに庄野真代の「飛んでイスタンブール」も1978年4月1日のリリース。そういえば池田満寿夫(1934~1997)の「エーゲ海に捧ぐ」(1977年・第77回芥川賞)も同じころだ。これらの作品も志和池氏の「アラビア半島」の影響多大かも。志和池昭一郎氏がご存命なら、現今の中東情勢をさぞ憂い悲嘆しているやも。
つづく。11月13日。
●「向田邦子の譚(こと)④・航空機事故」
▲1981年8月22日、「台湾・台北松山空港発高雄行きの遠東航空103便ボーイング737-200(機体記号B-2603)が、台北を午前9:54に離陸して14分後、台北の南南西約150キロメートルの苗栗県三義郷上空高度22,000フィート(6,700メートル)を巡航中に突然空中分解し、山中に墜落した。この事故で乗員6名、乗客104名の合わせて110名全員が死亡した。乗客には日本人18名が含まれていたが、その中に台湾への取材のため搭乗していた作家の向田邦子やシルクロード写真企画の火付け人であった志和池昭一郎がいたこともあって、日本社会に大きな衝撃を与えた。他にアメリカ人2名も犠牲となっている。事故機は1969年に製造された比較的使用年数の短いものであったが、海洋に近い台湾島内を頻繁に飛行したため、塩害の影響で与圧隔壁の腐食が著しく進行していた。これによって貨物室の外板が客室与圧に耐えられなくなって破壊され、空中分解に至ったものであった。本事故の約2週間前の8月5日にも、当該機は台北から高雄へ向かう途中に客室の与圧が抜けるトラブルを起こしていた。この時は台北に引き返し、緊急着陸に成功している。その応急修理を終えて復帰した直後に本事故が発生しているため、このトラブルはその前兆であったとされる。」(Wikipediaそのまま)。
▲1985年8月12日に起こった御巣鷹山の日航機墜落事故も(こちらは塩害ではないが)圧力隔壁の整備不良(ミス)であった。「米国調査団は2回目の現地調査を行った。後部圧力隔壁に絞った調査で、実物大の隔壁図面を広げて調べているうちに、修理された隔壁の一部に一列しかリベットが効いていない箇所があることを発見した。米国調査団のひとり、アメリカ連邦航空局 (FAA)技術アドバイザーのトム・スイフトは、修理ミスから金属疲労破壊が発生したと推定した。3回目の調査に入った米国調査団は、隔壁破断面のレプリカを採取した。ワシントンのNTSB本部にレプリカを送って検査したところ、ストライエーションと呼ばれる金属疲労痕が見つかった。スイフトは八田委員長に『(本事故前=1978年に起こした)しりもち事故の修理ミスによって接続強度が大幅に下がり、理論計算上は修理後約1万4千回※の飛行で圧力隔壁が破壊する可能性がある。』とレポートを示した。」。※修理後から本事故までの飛行時間は16,195時間59分で、飛行回数は12,319回であった。(Wikipediaそのまま抜粋)。
▲そもそも向田邦子一行は、台湾取材旅行が最初の目的ではなかった。当時ちょうどシルクロードブームでシルクロードか中東を訪問する予定だったようだ。それが旅行会社のミス(なぜかキャンセルされていた)により急遽、台湾に変更したという。神も仏もあったもんじゃない、とはこのことだ。
▲いまコロナ禍でかなりの数の航空機が羽田などの飛行場で飛ばずに待機している。コロナ禍が収束し待機の航空機が飛行することになるが、自動車と同じでエンジンを動かさないことがメンテナンスの上で最大の問題点らしい。国内航空会社では機体ごとの運行実績などをかなり詳しく開示しているので参考にすることも勧められる。
▲ついでながら重大航空事故については、ディスカバリーチャンネルで放送(『エアクラッシュ』)されている。
つづく。11月12日。
●「向田邦子の譚(こと)③・向田邦子の文学変遷」
▲向田邦子の下積み期(週刊誌のトップ屋など)、擡頭期のラジオ台本家(「森繁の重役読本)、沸騰期のホームドラマ脚本家(「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」)、そして押しに押されぬ円熟期の小説家(直木賞受賞)という飛躍過程を、弟の保雄氏は向田邦子の住処の変遷によって”時代化”している。
1929年11月28日 世田谷区に誕生
麻布時代 1948~1951年(昭和23~26)実践女子専門学校(19~22歳) 父の仙台転勤で港区麻布にある母方の祖父の家に2歳下の弟と居候
久我山時代 1951~1962(昭和26~37)(23~33歳)杉並区久我山(父の本社勤務で家族全員の生活) 雄鶏社 週刊誌ライター・ラジオ台本など
荻窪時代 1962~1964(昭和37~39)(33~35歳)杉並区本天沼に新居建築 放送作家として独立
霞町時代 1964~1970(昭和39~45)(36~41歳)父親と喧嘩してのマンションひとり生活 数々のテレビ名作が誕生
青山マンション時代 1970~1981(昭和45~56年8月22日)マンション購入 エッセー・小説など 台湾取材旅行中、搭乗の航空機が金属腐食による空中分解で死亡
(「向田保雄著「姉貴の尻尾」・P6を参考)。つづく。11月10日。
●「向田邦子の譚(こと)②・向田邦子の略歴」
▲向田邦子の父・敏雄が転勤族(東邦生命保険=現・ジブラルタ生命保険)であったため、西は鹿児島市から東は宇都宮市など転居した。
1929年(昭和4)11月28日 東京都荏原郡世田谷町若林にて出生
1930年4月 栃木県宇都宮市二条町に転居
1934年4月 栃木県宇都宮市西大寛町に転居
1936年7月 東京府東京市目黒区目黒三丁目に転居(尋常小学校入学)
1937年9月 同下目黒四丁目に転居
1939年1月 鹿児島県鹿児島市平之町に転居
1941年4月 香川県高松市寿町1番地に転居
1942年9月 東京都目黒区中目黒四丁目に転居(高等女学校入学)
1943年9月 目黒区下目黒四丁目に転居
1947年6月 東京都港区麻布市兵衛町に寄宿(母方の祖父母の家) 3月には目黒高等女学校卒業
1950年 杉並区久我山の東邦生命の社宅 3月実践女子専門学校卒業 財政文化社入社(社長秘書)
1952年 雄鶏社入社
1960年12月 同退社
1962年2月 東京都杉並区天沼三丁目に転居 3月よりラジオドラマ「森重の重役読本」放送開始(1969年終了・2448回の脚本執筆)
1964年10月 東京都港区霞町(現:西麻布三丁目)のアパートで独立生活開始 同年N氏が自死 同年ドイツ人と見合
1969年2月 父が心不全で急逝(64歳)
1970年12月 東京都港区南青山五丁目のマンションへ転居
1975年(S50)10月 乳癌手術(輸血による肝炎・右腕動かず)
1978年(S53) 「ままや」開店(下の妹・和子が店主)
1980年(S55) 第83回直木賞受賞
1981年(S56) 8月22日 航空事故(台湾)にて死去
1998年3月 「ままや」閉店
(Wikipedia参考)つづく。11月10日。
●「向田邦子の譚(こと)①」
▲向田邦子が台湾上空の飛行機事故で他界したのが1981年(昭和56年)8月22日である。今年の夏で没後40年が過ぎたことになる。1929年(昭和4年)11月28日の生まれなので、事故が無ければ、今月末に92歳を迎えていた可能性がある。
▲とくに小説家など有名人は、没後○十年という節目に生前の生き様や作品が注目されることが多い。太宰治(1909~1948)など国民的作家の命日には毎年、多くのファンが墓前に集うという。太宰のそれは「桜桃忌」である。向田邦子は今年が没後40年の節目で最近、テレビなどで俄かに注目されているのである。
▲私も流行(はやり)に漏れず、向田邦子の生前の映像を視たりなどして、「もしまだ生きていたら文化勲章を受章してミスターや絹谷幸二画伯さんらと一緒に写真撮影していたであろう」と勝手に想像している。ということで向田邦子に関する資料を調査しているのだが、特に目に留まったのが実弟(向田邦子の2歳年下)の向田保雄氏の書いた「姉貴(あねき)の尻尾(向田邦子の思い出)」である。文化出版局から昭和58年8月に出版された追悼本なるもので、この年は飛行機事故からちょうど2年(3回忌)である。
▲ついでながら、太宰の「桜桃忌」については咄嗟の記憶想起だが、太宰が玉川上水で入水したのは、1948年(昭和23年)6月13日であり、太宰が満39歳の6日前であった。1948年の向田邦子はその時、19歳である。生前、ふたりはもしかしたら銀座の路面電車かなにかでニアミスしたことも考えられなくはない。空想だ。ちなみに向田邦子の命日の8月22日は「木槿(むくげ)忌」(山口瞳の小説『木槿の花』で提唱)。
つづく。11月7日。