●日向の国、とくに今の木城町では、耳川の戦(1578年11月12日)とは別にもうひとつ大きな合戦がありました。「白根坂の戦」ですが、それに至るまでの経緯を大まかに調べると・・・・・・
①1577年(天正5年)、島津氏の侵攻により伊東氏が日向より豊後国へ追いやられると、翌1578年(天正6年2月)、山田有信(1544~1609)は新納院高城の城主及び地頭に任じられた。山田有信が高城の城主ということが重要となる。
②同(1578)年、大友宗麟(1530~1587)が6万余の大軍を率いて南下し、有信の高城を包囲したが、僅か300の兵で籠城、助勢として馳せ付けた島津家久・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らと併せた3,000余の兵で大友軍を足止めし、この耳川の戦で島津勢の大勝利を成した。
③その後も大友との小競合いは10年近くの続いたが、秀吉が家康を配下に置くことに成功すると、秀吉の本格的九州征伐が始まった。
④1586年(天正15)、秀吉の弟である豊臣秀長(1540~1591)軍が日向にまで南下すると、有信はまたも高城に300余の僅かな兵で籠城し、高城を取り囲む豊臣軍に抗し続けた。そして島津軍は得意とした夜襲で高城を囲む秀長軍を後詰めで挟撃しようとしたが、これしきの事、軍略家の官兵衛(黒田孝高、如水とも、秀吉の名参謀、1546~1604)にとっては御手の物であり、秀長軍の鉄砲隊に撃ち込まれ、有信籠城の高城もこれまでの万事休す・・・・・・重なる島津義久(1533~1611)の説得により有信は妻子を人質に出して降伏した・・・・・・これが根白坂の戦の概要であります。
つづく。12月13日。
●大友宗麟のコト・3・・・・・・宗麟は北九州6国を所領したほどの人物である。九州全土、あわよくば天下統一を目論む野心があったのかもしれないが・・・・・・それには信長や秀吉のようなカリスマ性がなかった。言い換えれば人望がなかった。そもそも島津と大友との合戦はどのような経過で発生したのであろうか。もともと両者は明や南蛮貿易の利益性から同盟的関係にあったが、天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北し、日向を追われ大友氏に身を寄せたことに端緒がある。そして宗麟は島津を降すべく日向に出兵し、一時は耳川(高城川)まで島津を後退させたが、その後の逆襲で形勢は大いに逆転し、延岡の無鹿の陣(1578年8月~)で指揮をとっていた宗麟も、最期にはやむなく豊後へ敗走したというもの。
①好色家であった。美女を得るためにその役目の者を上方に常駐させており、臼杵の館には多くの婦人を住まわせたほどの漁色家だった。
②家臣の妻をとりあげるというようなことも一度や二度ではなかった。たとえば宗麟傘下の一万田親実の場合、謀反の容疑をつくりあげて殺害して、目的を達成した。
③耳川の戦では、「道悪しき所にては、仏神の尊容を取りはめ取りはめ、是を踏んで通りし」(「大友記」)とか、「宗麟はその征服した土地の神社や仏閣をこわした。そしてつねづね、自分はキリストをもって統治したい、と語った」(陣中に伴っていた7人の南蛮人宣教師がローマに送った報告書)・・・・・・などの蛮行も人望失墜の一要因であろう。
つづく。12月10日。
●大友宗麟のコト・2・・・・・・日向の国は戦国の世、北は大友氏から南は島津氏に挟撃されたといってもよい。よほど伊東氏がヒトの良い殿様であったのか・・・・・・だが。宗麟とはどのような人物であったのか。
①宗麟は少年のころから南蛮渡来の物品が好きであった。当時の豊後には相次いで明船や南蛮船がやって来、ディオゴ・ヴァスというポルトガル商人などは、5年間も城下に住み日本語も話せた。ヴァスが聖書を前に神に祈っているところを宗麟が目撃したと・・・・・・記録にある。
②1549年に日本へキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエル(1506~1552)。入陸は鹿児島の坊ノ津はだったが、島津での布教で信徒になったのは僅か100人そこそこという。もとより島津は安心立命のために禅宗を、武運を開くためには密教(兵道)を好んでおり、キリスト教拡大には限界があった。そこのあって宗麟は南蛮品を嗜好しており、当然面会したであろうし、キリスト教のユートピアを(日向の国に)建設しようと目論むほどであったから、いわば意気投合したに違いない・・・・・・ことが想像される。
③その中途にあって島津が日向の伊東氏に攻め入った時、宗麟はこれ幸いにほくそ笑んで援軍を送ったであろう。がしかし耳川の戦で大敗してしまう。
つづく。12月10日。
●大友宗麟のコト・1・・・・大友宗麟とはどのような性質の人間だったのか・・・・・・日向の国にカトリック(イエズス会)のユートピアを築きたく・・・・・・わが日向(宮崎県)を戦の舞台に巻き込んだからにはそれなりの調査が必要だな。
①宗麟(1530~1587)は大友氏21代当主。初代の能直(よしなお・1172~1223)は鎌倉時代の守護職(=国司を監督する武家の職制による=守護大名)・・・・・・すなわち戦国大名の一氏。(ちなみに織田家は祖は守護代)。
②宗麟の父とその側室の間に生まれた異母弟との家督争い(お家騒動)である「二階崩れの変(にかいくずれのへん)」(1550年=天文19年)で宗麟派が勝利・・・・・・廃嫡されていれば後の宗麟はなかった。
③宗麟の弟・晴英(大内義長)は、周防の国の大内氏が陶晴賢の謀反で自害すると大内氏の名跡を継ぎ、周防との関係が安定。その後、肥後の菊池氏を滅ぼし勢力拡大。しかし1557年、弟の大内義長は毛利元就に攻められ自害。元就との密約(宗麟は大内氏に干渉しない・元就は筑前、豊前に介入しない)により勢力拡大を図り、北九州6国に日向、伊予の半国を手中に入れた。
④しかしその勢いも「盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)」(平家物語)であり、耳川の戦の敗戦を機に一気に家勢は傾き、秀吉の世になって遂に(秀吉の九州征伐で島津氏が降伏後)滅没した。
つづく。12月9日。
●先々月はオホーツク、先月は大分、そして「今月の旅」は、関ヶ原古戦場と金華山の岐阜城(稲葉山城)でした。宮崎空港→大阪(伊丹)空港→(高速バス)→新大阪駅→(新幹線)→米原駅→(在来線)→大垣駅(レンタカー借)→関ヶ原古戦場→長浜(1日目宿泊)→(2日目)岐阜城(稲葉山城)→岐阜駅(レンタカー返却)→(東海道線)→名古屋駅→(新幹線)→東京(2日目宿泊)→(3日目)東京散策→宮崎帰還・・・・・・でした。今回の旅は、歴史上の人物でもっとも尊敬する天下人、「織田信長」が天下取りに本腰をいれた居城、稲葉山城を見、そして天下分け目の戦である関ケ原合戦の地を直に踏んで、東西陣営の布陣の位置的関係を知りたかったからです。それでは、乞うご期待あれ。つづく。12月8日。