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今週の親仁ギャグ・2020年7月19日(日)~7月25日(土)

●「憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ
▼スペイン風邪の1918年、ニッカウヰスキーの創設者、竹鶴政孝が神戸港から東洋汽船の天洋丸でスコットランドに旅立った年であるります。日本にはまだスペイン風邪がもちこまれなかった6月29日です。
天洋丸は香港から上海、長崎、神戸、横浜、ホノルルに寄港してさんふに向う。神戸からサンフランシスコまでは二十日間、運賃は一等二百七ドル五十セント・・・・・・」(川又一英「ヒゲのウヰスキー誕生す」・新潮文庫・pp54~55)と云う時代でした。
▼わたしが山口大学の教官時代(まだ独身でした)、医学部主催で利根川進氏の講演があり、拝聴したことがありました。そうです、先生がノーベル賞受賞直後の頃です。テルモ(株)ウエブサイトに以下の文面が載せてあります。
「▽その約100年前の1889年、北里柴三郎は不可能といわれた破傷風菌の純粋培養に成功し、世界を驚かせた。さらに破傷風菌の毒素を無力化する「抗体」を発見し、血清療法を確立した。また、抗体はジフテリアをはじめ、いろいろな感染症の治療に応用できる多様性を持つこともわかった
利根川進は、アメリカに「分子生物学」という学問があることを知り、アメリカへ留学した。さらにスイスの免疫学研究所へ移り、そこで抗体の研究をはじめた
人体には、さまざまな細菌やウイルスなどの異物が侵入してくる。これに対し、血液成分のひとつであるリンパ球のB細胞は、その細菌なり、ウイルスなりに対する抗体を作る。すると同じ異物が再び侵入したとき、簡単に撃退できるようになる。これが免疫だ。どんな異物が侵入しても、B細胞はそれに応じた抗体を作ることができ、その種類は100億を超える。この「抗体多様性の謎」は、北里の時代から未解決のままだった
スイスに来て四年目、利根川はアメリカで行われたシンポジウムに参加した。そこで発表された、抗体多様性に関する彼の報告は、出席者の度肝を抜くものだった。なんと、遺伝子が変化するというのだ。遺伝子情報はDNAに書き込まれており、一生その形は変わらないため、指紋のようにその人を特定する決め手になる。しかし、利根川は「B細胞だけは自らの抗体遺伝子を自在に組み替えて、無数の異物に対応する無数の抗体を作ることができる」ことを証明したのだ。」
▼なんとも日本人としてこの上なく誇らしいことです。そしてもう一人、細菌・ウイルス学発展の歴史で忘れてならない日本人が野口英世でしょうか。野口英世は1928年、51歳で自らの研究テーマであった黄熱病で、アフリカのアクラ(ガーナの首都)にて斃れました。この英世の時代、まだウイルスと云う概念がしっかり確立されていませんでした。最初の電子顕微鏡 (TEM) がベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカよって開発されたのが1931年のことですから(ルスカは1986年にノーベル物理学賞を受賞)。
▼そのウイルスですが、そのほかにも多くの日本人が国内外を問わず、人類に貢献しています。わたしの拙い貧相な知識でも、
①緒方春朔(秋月藩藩医)が1789年に大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘法(天然痘の瘡蓋を粉末にして鼻腔に吹き入れる方法)で接種し成功。
②1810年、ロシアに拉致された中川五郎治が、帰国後に牛痘を用いた種痘法を伝える。
③そして大阪大学医学部前身の「適塾」の緒方洪庵先生。どれも天然痘の種痘に関する貢献ですが・・・・・・。

つづく。7月19日。

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