●来月上旬の日米首脳会談で日本は新疆ウイグル自治区の人権問題で踏み絵を踏まされる可能性があります。隣国には「恨五百年」とも「千年の恨み」という言葉があるそうですが、中国政府の『日本は慰安婦問題という人道上の犯罪で言葉を濁している。彼らは人権を尊重していると言えるのか』『日本の侵略戦争で3500万人を超える中国人が死傷し、南京大虐殺で30万人以上が犠牲になった』『歴史を直視し深く反省し、言葉を慎むように望む』と語った。」と言った主張を聞き捨てなりません。民主主義と専制主義を混同しているのにも笑止千万です。国のトップが支配者として独断で思いのままに事を決する政治が専制主義ですから、今の中国やロシア、北朝鮮、そしてミャンマーなどはその範疇です。過去日本はその侵略行為によって中国大陸や朝鮮半島に対して多大の犠牲を強いたのは明らかです。しかし今は、それを改め民主主義の発展と醸成に少なくとも多くの国民がそれを意識し努力しています。日本の大陸進出を日清戦争前とし、終戦がその終わりとすれば、(日本人としては)既に100年以上が過ぎているのですが、侵略されたほうからすればまだまだ100年なのです。あと400年も900年も延々と続きがあるのです。日本政府は今回のような脅しに屈することなく民主主義国家として大上段から民主主義の何たるかを説諭しなければなりません。経済的ダメージを考慮して言うべきことを遠慮してはなりません。日中戦争で行われた殺戮や強奪、強姦に対する両国の主張には大きな隔たりがあります。
つづく。3月29日。
●先週の写真は、石川達三著の「生きている兵隊」の文庫本です。南京事件について書かれたものです。1937年7月7日の盧溝橋事件を契機として始まった日中15年戦争。1937年(昭和12)12月13日に南京(当時中国の首都)が陥落します。石川達三は1937年12月25日に東京を発って神戸から軍用貨物船で出し上海を経由して南京に着いたのが1938年1月5日でした。そして南京で8日間、上海で4日間精力的に取材し、同2月1日から原稿を書き始め書き終えたのが同2月11日でした。330枚の原稿をわずか10日間で完成したのです。その時の初版自序に、「私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」と書いています。それが戦後、「入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった」(1946年5月9日の新聞インタビュー)→「南京で起こったある事件を、私の本ではそれを他の戦線で起こった事として書きました」(同5月11日の国際検察局尋問)→「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」(死の3か月前、阿羅健一へ語ったこと)へ内容が変遷しました。先日鬼籍に入られた半藤一利氏のあとがき「『生きている兵隊』の時代 解説に代えて」にある如く私もこの小説が事実であったと信じていますが、戦後、石川達三の見解がフィクションへと変遷したのは、誰もがノンフィクションと捉えてくれることの自信と、そうすることによって余計に真実が伝えられるとの境地であったと推察します。
つづく。3月29日。