●「古墳人⑦」
▲現代日本人の遺伝子構成は東アジア由来が約70%を占め、その比率は「古墳人」に極めて近い。日本人の先祖である縄文人の遺伝子は僅かに約15%であり、残りの約15%が弥生人の遺伝子である。東アジアの人々の遺伝子はどこから来たのか。
▲縄文時代の人口は、縄文早期が2万人、縄文中期の最盛期が26万人、縄文晩期は8万人弱まで減少したとされる。何故人口が減ったのか・・・・・・それについては気候変動による生産力低下や動物相への悪影響が考えられている。その状況下で生産性を著しく向上させる稲作が朝鮮半島より伝来し弥生文化が起こった。稲作は紀元前100年頃までには西日本一帯に、紀元後1世紀には東北南部へ、さらに紀元後3世紀には北海道を除く日本列島の全域に拡大した。この定着性と生産性の向上が人口の増加につながった。同時に、稲作には多くの労働力が必要であり人口増加に拍車をかけたことになる。
▲その人口増加に大きな役割を果たしたのが大陸からの渡来人であった。弥生時代初期から奈良時代初期までの1000年間に150万人の渡来があったと推測されている。当然ながら弥生時代の渡来人(北東アジア祖先)は、日本先住の縄文人と交雑し弥生人を生んだ。そして弥生人は、その後に渡来してきた大陸人(東アジア祖先)とも交雑し人口を増やした。その大陸人と弥生人との交雑で誕生したのが「古墳人」ということになる。
▲弥生時代の終わりの頃の日本の人口は約60万人、奈良時代初期は約450万人と推定されている。1000年間に150万人が渡来したとされるが、無論それは短期間に一挙に渡って来たのではない。1500000(人)÷1000(年)=1500となり、1年の平均としては1500人が渡来した計算になる。
▲その年間1500という渡来人の数が、弥生時代の60万人を奈良時代初期(古墳時代の終わり)までに7~8倍の450万人に増やした。そして今の1億2千万人超の数字がある。
▲古墳時代の終わり頃には、既に現代日本人の遺伝子の基本は成立していたということであるが、当然ながら、奈良時代以後も渡来人の遺伝子が交雑することになった。そして「現代日本人」においては、縄文人と北東アジア祖先人の遺伝子比率が減少し、その分だけ東アジア祖先人の遺伝子比率が「古墳人」よりも10%弱程高いのである。
つづく。10月1日。
●「古墳人⑥」
▲地球上に言葉が出現したのが今から5万年前頃。最初の文字体系が発明されたのは約6千年前。漢字は紀元前1600年の発明とされる。
▲日本人が日本語を使うようになったのはいつか。その前に日本の時代区分の変遷が激しい。我々が学生の頃まで弥生時代の始まりは紀元前2~3世紀と記憶しているが、最近になって紀元前4世紀から紀元前8世紀へ遡り、直近では紀元前10世紀まで拡大している。その日本での言葉の発明は弥生時代の中期ごろ(紀元前3~4世紀)なのだろうか。
▲「古墳人」がいつ頃どこから何故どのような手段と目的で日本のどの地域へ渡ってきたのか。記録があればそれで解決するのだが、文字の無かった縄文・弥生・古墳の先史時代に求めることはできない。口承や伝承で受け継いできた日本の歴史を”文字化”したのが「天皇記」であり「国記」であった。これらは現存していないが、写本で伝えられているのが「古事記」であり「日本書紀」である。殊に「日本書紀」は当時から日本の国外に日本の国家としての権威を示すものであったため、公式的な漢字表記となっている。
▲その漢字は、いつ頃日本に伝来したのであろうか。現在の通説によれば、漢字の日本伝来は4世紀後半という。古墳時代が3世紀中ごろ(卑弥呼の時代が終了)から7世紀ごろ(聖徳太子が登場する飛鳥時代の前)の時代区分である。ついでながら「万葉仮名」についてであるが、その名は「万葉集」に拠るが、「万葉集」は奈良時代の末期に編集された和歌集であり、その中で使用されているのが表音文字の「万葉仮名」である。それまで伝承や口承で語り継がれた日本語において、その地名や個人名などについては漢字での表意が不可能であったため当て字的に「万葉仮名」を考え使用したのである。その始めは「天皇記」や「国記」にあったかもしれないが、確かなものは「古事記」である。「古事記」は神話的な意味合いの書物でもあり、国内向けの歴史書であるから、表意の漢文の他に表音の「万葉仮名」が使用されている。
▲これが「文字」の力ということだ。
つづく。9月30日。
●「古墳人⑤」
▲全遺伝情報(ゲノム)解析が人類の進化や民族の移動と交雑などの真相に大きな役割を果たしているのは疑いようのないことだ。犬と人間とのゲノムの一致は約80%という。人に近いとされるゴリラと人間の遺伝子は98.25%が、チンパンジーでは98.73%までが同じとされる。
▲現代人のゲノムは全て解読されていると言っていい。ゲノム解析で初めて全ゲノム配列が決定されたのは、1976年のRNAウイルスのバクテリオファージMS212であり、その後1997年末までに大腸菌や枯草菌、シアノバクテリアなど10種類以上の細菌と出芽酵母のゲノムが決定された。そして1990年から2003年までに世界各国が3000億円以上の予算を投じ、約30億塩基対のヒトゲノムを解読したという、歴史がある。
▲上記数字の残りの1.75%~1.27%の遺伝子が人を人足らしめていることになる。人種や民族などの決定因子でもある。そこで「古墳人」についてである。最後の写真が示すように、現代日本人(本州)の遺伝子には縄文人の遺伝子が十数パーセントしか占めておらず、弥生人にしても縄文人と同等であり、残りの約70%は東アジア人の遺伝子を有している。ここで調べられた個体は、現代日本人を除き古人骨でのゲノム解析であるが、一目瞭然、現代の日本人が縄文人や弥生人の血(遺伝子)を多く受け継いでいるのではなく、弥生時代以降に海外から渡ってきた民族によって交雑が生じたと考えるのが自然である、という結論に至る。穿った見方をすれば、縄文人や弥生人のゲノムが現代日本人のそれとあまりにも違っているため、それ以降の古人骨のゲノム解析を行ったところ、古墳人のゲノムが現代日本人と幸運にも一致したということだろうか。それにしても金沢大学らの発表のデータは、縄文人が9個体、弥生人が2個体、古墳人が3個体であり、n数において多くはない。さらに古墳人は岩出横穴墓の一か所であり、さらなる検証が必要であろう。
つづく。9月28日。
●「古墳人④」
▲古墳人を勉強し始めて早一週間。古墳奮闘だ。頭の中が混雑絶倒してまとまりがつかない。そこで基本事項について復習してみる。
▲人類と年代、その特徴について
・猿人:アフリカに450万年前に誕生。600万年前~700万年前にチンパンジー・ボノボの祖先と別れた。尾が無く犬歯が縮小し、直立二足歩行を始め、自由になった手を使って簡単な道具(原始的な石器)を使う。アウストラロピテクスが代表。脳容積は約500ml。
・原人:約50万年前の北京原人やジャワ原人。火を使い始める。打製石器を試用。多人数で共同生活を始め、鳴き声よりも複雑な言葉に発達。脳容積は約1000ml。
・旧人:約30万年前に登場。ネアンデルタール人が代表。死者を弔う。7万年前から徐々に減少し、ネアンデルタール人は約3万年前(2万数千年前)に絶滅。ネアンデルタール人と新人のクロマニヨン人との交雑は確実。脳容積は1300ml。
・新人(現生人類):約20万年前にアフリカに誕生。脳容積は1500ml。
※新人以外は撲滅したが、それぞれの人類は同時期にこの地球上に生活していたが、友好関係にあったか敵対関係にあったかは不明。
▲言葉と文字
それなりの言葉が誕生したのは、推定する材料(資料)に乏しいことから困難をきわめるが、今から5万年前頃ではないかとの推定がなされている。また文字については、最初の文字体系が発明されたのは紀元前4千年紀後半とされる。漢字については、議論の余地がないのは紀元前1600年の発明とされる。
▲縄文人と縄文時代の差異
縄文時代は、出土した土器(縄文土器)からの命名であり、表面に縄文のあることからその名がつけられた。現在の時代区分では紀元前14000年頃から紀元前1000年頃までをいう。
縄文人は、広義には3万8000年前から2万5000年前にかけて日本列島に移動して来た大陸人で、狭義には縄文時代に日本(北海道~本土~沖縄)に居住した人々と解されよう。
つづく。9月26日。
- を書いている。私は青森訪問の2か月後、静岡市の「登呂遺跡」(左の写真2葉)にも行ったが、「三内丸山遺跡」の方が4000年~2000年も前であるにもかかわらず、遺跡から想像される住民の生活
- 「四五〇〇年前の巨大木柱出土」という見出し。同7月22日に三内の現地に赴いた。「もし古代ギリシャ人が、縄文中期にここに来たとすれば、これは一種のポリスではないかというかもしれ
- 安置していたのであろうか。それとも見張台として利用したのであろうか。ところでこのコロナ禍のなか、私の旅は頓挫中であるが、未だ休戦状態であって完結ではない。その旅心に火をつ
- →のテーマでそのひとつとして「三内丸山遺跡」が紹介してあったように記憶する。司馬さんが鬼籍に入ったのが1996年2月であり、司馬さんが「三内丸山遺跡」を訪れたのは1994年7月22日。司
- 岬に立ったのは2019年10月で、それからすでに2年が経過した。写真は青森市の「三内丸山遺跡」で、その地に立ったのは3年前の2017年9月であった。三内丸山遺跡は、今から約5900年~4200年前の