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江戸にみる「美しい日本」・その2 (江戸の人口事情)

  日本の人口の推移を推定した資料によると、縄文期は10~30万人で推移、稲作伝来とともに約100万人が渡来した弥生時代(紀元前4もしくは8世紀)には100~300万人、大宝律令施行(701)の8世紀には450万、9世紀には550万、10世紀には650万、鎌倉幕府が樹立(1185)された頃には700万人弱、関ヶ原の戦い(1600)の頃が1200万強、享保の改革(八代将軍吉宗の時代)の頃には3000万人を超えた。明治維新(明治元年1868前後)では3300万人、その後急増して太平洋戦争開戦時(1941年)には8390万人となった。「生めよ、増やせよ」、「一億玉砕」の言葉はこの時代のものだ。2006年には1億2693万人でピークになり、今後は減少の一途で100~150年後には5000万人を切ると予想されている。人口を維持しようと考えるならば、危機的状況である。

  江戸の人口はどうであったか?。

  江戸はその昔、東(あずま=京都からみた関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称)の国と呼ばれ、東武士は荒々しくて恐れられていたという。新撰組の近藤勇(1834-1868)や土方歳三(1835-1869)(どちらも武蔵の人)はその血を引く。

  江戸に遷都した後の1640年頃には京都に追いつき、1695年には85万人で日本一となった。18世紀(1700年)になると100万人を超え、1837年にはロンドン、パリを追い抜き128万人で世界一となった。居住地は現在の東京(1868年に改称)都より狭いが、人口密度は現在の約3倍であったという。八百八町、延いては7000町として栄えた。

  江戸の人口は、江戸城や大火後の普請で、大工などの労働力が不足した為、田舎から人々が上京(流入)して増加した。江戸や京都、大阪などの人口密集地の出生率は晩婚などの理由で田舎に比べて低く、反対に疫病(伝染病)が流行ると急速に伝播するため江戸の死亡率は高かった。そのため、長男以外の余剰の「田舎人」は奉公人と称され、都へ流れた。江戸の人口増加は、現在東京の人口が増えているのと同様に、「田舎人」の貢献によった。当時、実質は「口減らし」で有ったのかもしれないが、江戸が発展したのは「田舎人」のお陰であったことは、紛れも無い事実である。

  現在の日本と似かよった現象が見られたことになる。小学・中学・高校、場合によっては大学まで、税金を使って大切に養育した地方の若者が、次々に東京へと流れる。東京をはじめ大都会の労働力となり、それが消費を拡大させ、いわゆる「東京のひとり勝ち」の事態を生んでいる。

  「ふるさと納税」論議も良いが、国(国会議員と官僚)や都知事は、地方に対して優しい言葉はもとより、「感謝の念」を表して貰いたい。至極当然ながら「労働力提供税」なるもので、地方に還元して貰いたい。労働力なくして、経済など有り得ないし、語れない。「良いとこ取(ど)り」の大都会は許せない。

  東国原英夫氏は東京生活が30年を超えて、県知事に就任した。小生は以前より、地方の知事や市町村の首長は地元の生抜きでは問題があると思っていた。都会人が地方に何を欲しているか、直感的に見抜けないし、読めないからだ。奇策妙案(奇抜なアイデアや名案)を講じることなど先ず不可能だ。
  
  江戸時代に限らず、都会で諸々のノウハウ(know-how)を習得した「地方人」は、頃合を見てU-ターンし、地方をもりたて活気づけた。昭和の故・岩切章太郎氏もその一人であろう。

  県庁などの行政機関は、都会や国外で生活、活躍している宮崎県出身者に眼を光らせ、中途採用枠を設けるなど、人的財産の確保に吝(やぶさ)かであってはならない。

  意味は多少異なるが、「蝶よ花よ・・・・・」と育てられた「田舎」の若者が、都会で沢山の蜜を吸い、肥しを貰って大輪を咲かせ、脂の乗った時に帰県することを切に願う一人である。    

  つづく  

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