コンテンツへスキップ

日本のウヰスキーの父・竹鶴政孝の社名「ニッカ」の命名はどういう理由?

 竹鶴は、昭和4年4月1日、自らが製造した日本初の本格ウヰスキー「白札サントリー」を発売した。もちろん鳥井信治郎の「寿屋」の技術者(ウヰスキー製造職人)としてだ。昭和9年3月1日、10年奉公した寿屋を退社。同年7月、余市に「大日本果汁株式会社」を設立。周知のようにウヰスキーは蒸留後、樽で数年寝かせてなんぼの代物。工場(会社)立上から最初の商品発売まで少なくとも数年が必要だ。当時余市は「国光」の産地であったため、その間林檎を搾って果汁を食繋ぎに製造販売した。そしてついにその時が来た。昭和15年10月、自分の会社で自身の手で製造した「ニッカウヰスキー」が世に出たのだ。この「ニッカ」は「大汁」を略した。因みにサントリーは馬鹿売れした「赤玉ポートワイン」(輸入ワインに糖分や香料などを混ぜ合せて日本人好みとした。当初、寿屋は竹鶴の最初の就職先で英国留学を援助した「摂津酒精醸造所」(阿部喜兵衛社長)にその製品の製造を依頼していた)の赤玉=太陽=サンと鳥井のトリから誕生した社名である昭和4年の日本第1号ウイスキーの「サントリー白札」は不評で返品が相次ぎ、翌年発売の「サントリー赤札」もイマイチで、昭和12年10月8日発売の「サントリー角瓶」が当った。「サントリー白札」は今の「サントリーホワイト」で、「サントリー赤札」は「サントリーレッド」

先頭へ