この数年、村上春樹氏のノーベル文学賞受章の期待が大きいものの実現していない。過去、川端康成と大江健三郎氏が受賞しているが、谷崎潤一郎がノミネートされ、三島由紀夫も候補に取り沙汰されたいたのか、いないのか。日本文学史上、それ以上の傑作があるとすれば、それは「源氏物語」の紫式部であり、夏目漱石であろう。漱石は読めても「源氏物語」は無理・・・買ってみたものの難解さゆえ1巻で、それも100ページも進まない。
そうは言っても、内容や書かれた時代背景ぐらいは把握しておきたいので、例の箇条書きで確かめてみますか。主な参考は三田村雅子「想いは伝わるか 紫式部 源氏物語」(NHK100分de名著ブックス・NHK出版・2015年12月発行・放送は2012年)である。(随時加筆)
○日本最高峰の「古典」。西暦1000年頃に書きはじめられたか。英語をはじめ世界約20カ国で翻訳されている。
○はじめは小さくて簡便な升型(ますがた)本であった。
○紫式部が藤原道長の要請で宮仕えに出る前から書き始めたので、道長がスポンサーであったというのは間違い。
○稀代の色好み光源氏による手当たり次第の恋の冒険ではなく、愛のすれ違いや空転、誤解、伝えられることの難しさを、微に入り、細を尽くして語る物語である。
○光源氏は「天皇になれなかった皇子」であったから、「天皇に関わる女性を自分のものにしたい」というところから湧き出ているのか???
○光源氏は天皇の子(皇子)であったが、母は天皇にはなれない更衣の身分であった。光源氏は桐壺帝という帝の皇子であったが、父帝によって「源氏」という臣下に下された(「臣籍降下」)。現在の天皇制では、天皇の子孫は子供も孫もみな親王(男)か内親王(女)だが、平安時代には孫世代の親王はなく、親王宣下を受けられるのは直宮(直系の子供)のみ、しかもそのうちの母の身分が高い半分くらいしか親王になれなかった。
○皇族は姓を持たない。光源氏の姓は「源(みなもと)」であり、天皇の息子で源氏になったものを「一世源氏」という。氏族としては藤原摂関家よりも位が高い。
○政治を思うがままにしていた藤原摂関家は「一世源氏」の活躍を邪魔な存在として煙たがり、源氏物語が書かれる50年ほど前を境に「一世源氏」が新設されることはなくなった。
○紫式部がすでに存在しなくなった「一世源氏」をわざわざ物語の主人公に据えたのかが重要な問題である。それは、目の前に繰り広げられている藤原摂関家一辺倒の世の中への批判であった。
○では藤原道長に睨まれなかったのはなぜか。それは、道長は藤原氏一辺倒の人間でなく、源氏の姫君たちを妻に迎えたり、妻の弟や甥(源氏)を養子にしていた。源氏と藤原氏の血を合わせようとしていた節もあり、源氏を優遇していたか。(以上、2月3日の記)
●源氏物語の現代語訳をした人物を古い順に列挙すると、①与謝野晶子(与謝野晶子は生涯に3度現代語訳を試みた。与謝野は、12歳当時、『源氏物語』を原文で素読していた) ②谷崎潤一郎(谷崎も生涯に3度現代語訳を試みた)、③窪田空穂、④円地文子、⑤田辺聖子、⑥橋本治、⑦瀬戸内寂聴、⑧大塚ひかり、⑨今泉忠義、⑩玉上琢弥、⑪尾崎左永子、⑫中井和子、⑬林望(料理が上手なことでも有名ですが)。
●特に谷崎は、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで6回にわたってノーベル文学賞候補に選ばれている。うち1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた。(2月22日記)。
○光源氏は『伊勢物語』の主人公とされる在原業平をモデルとしていると言われる。業平の天皇の血を濃く継承した貴公子が帝の妃や斎宮と関係を持ち、許されぬ恋に身をやつす、という点は共通している。
○東洋のカサノヴァ、ドン・ファンで通っているのが、われらが光源氏だ。紫式部の源氏物語ではもてにもてた。婚姻関係にあった女性は、紫の上、花散里、六条御息所、葵の上、明石の君、末摘花、女三の宮の7人であり、その他の男女関係が藤壷中宮、朧月夜の君、空蝉、夕顔の4人である。
○光源氏はこともあろうに藤壺という義母に恋慕するのだが、これには幼くして失った恋しい母、桐壺更衣の代償という意味があった。紫の上は藤壺の姪であり、紫の上が藤壺の生き映しであったから。女三の宮も藤壺の姪である。関係をもった多くの女性が藤壺、さらにいうと実母の桐壺更衣に容貌や所作が似通っていたからではなかろうか。(2月24日記)。