第二次世界大戦・太平洋戦争とはどのような経緯で起こったのだろうか・・・・・・経月的・経年敵にまとめてみよう。
○ドイツと日本は国連を脱退し、1936年、対ソ戦のみの適応である「日独防共協定」締結。
○1929年世界恐慌。第一次世界大戦の戦後復興に窮していたドイツは、この事態に国民生活は限界に陥る。
○そこへ登場したのが「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)を率いたアドルフ・ヒットラーである。90%近い支持率であった。
○1939年9月1日、ナチスはポーランドへの軍事侵攻開始。これが第二次世界大戦の開戦となる。
○ポーランド分断・ノルウェー・ベルギー・オランダを占領。1940年6月にはフランスも領有。
○ヒットラーが躍進した世界第二次大戦に対して、当初の日本は、泥沼の日中戦争と極端な資源不足から、政府も軍も不介入の方針であった。
○それがどうして参戦したのか。ドイツの躍進とその体制にあった。ヒットラーの全体主義、換言すれば「独裁主義」である。一つの政党や一人の人間が「すべての国民が国家のため従属すべきだ」いう思想をもって、領土拡大や資源奪取を可能にするという侵略行動を是とした。
○1930年代の後半は、日本の大陸侵略に対して大きな懸念を示していた米国との緊張がすでに高まっていた。日本が米国に打ち勝つためにはこの「全体主義」の政治体制が必要と考えていたのが時の近衛文麿首相であった。
○ドイツの連勝に次ぐ連勝で、ヨーロッパを制したドイツがやがてはアジアを席巻し、かつてのドイツの租借地である遼東半島や南洋諸島の利益も主張するであろう・・・と考えた陸軍は「三国軍事同盟案」を提案した。
○1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」締結。
○時の松岡洋右外相は、三国同盟にソ連を加えた「四国同盟」を構想。理由は、ドイツと言えども米国の比ではないから、ソ連を仲間に入れれば米英に対抗できると考えたから。
○1941年4月、「日ソ不可侵条約」に調印。しかしドイツはその2ヶ月後、突如ソ連に侵攻。「四国同盟」は幻となる。
○近衛首相は、軍主導の同盟案成立に協力する一方で、日本の全体主義化を推進。「バスに乗り遅れるな」をスローガンに掲げ、新聞と協力して国民扇動を図った。1940年10月、近衛を総裁とする「大政翼賛会」が結成された。
○翼賛会は軍主導から政治主導への挽回を狙ったものだったが、逆に軍部が翼賛会に関与し、不成功に終わった。これにより、軍部が完全に政治を掌握するに至った。
○日本の軍部による全体主義化と「日独伊三国同盟」成立に不信感と怒りを露わにしたのが米国であった。ルーズベルト大統領は、「3国が目指す関係は、全人類を奴隷化するための金と権力に汚れた邪悪な同盟だ」と非難。日本はこの同盟で米国の委縮を目論んだが、それとは反対に眠ったふりの虎をさらに獰猛化した。
○予想外の米国の怒りに対して、「日米諒解案」を講ずるも対米強硬派に潰された。そして1941年7月の御前会議において、関東軍の大幅増強と南方進出を決定した(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」)。この要綱により日米の対立は決定的になったと言える。
○当初の不参戦から参戦へと方針転換したこととなった。(ここまでは1月4日記)
○1938年11月3日、近衛文麿首相は、日本がアジアにおける欧米植民地の解放と中国・満州との連帯を明示した「東亜新秩序声明」を発表したことでアメリカが激憤。元来アメリカは植民地のフィリピンを足掛かりにアジアの利権を拡大を狙っており、さらには満州をもその権益の標的とした。アメリカのこの目論見は日露戦争時からであり、1930年代に盛んになった。これらは日米の思惑が同じであったこと、さらに満州侵攻については日本が先んじた格好であり、アメリカの態度が硬化した。果たしてアメリカは中国への物資支援を強めると共に、日本への制裁処置を具体的に取るようになったのである。
○日本は、満州開発といっても、その資源や物資の最大輸入先はアメリカに依存していた。そのためアメリカは先ず経済制裁を加えた。1939年の日本の鉄鉱石と石油のアメリカからの輸入はどちらも約7割を占めていた。かつ兵器を製造するための工業機械も6割弱がアメリカ製であった。全くのアメリカ依存の国が日本であったのだ。
○次いでアメリカは、1939年7月、「日米通商航海条約」の破棄を日本へ通達。1940年6月、工業機械の全面禁輸を実施した。
○ドイツ信奉の日本は、それにも拘わらず、1940年9月の日独伊三国同盟締結による全体主義へ邁進し、1941年7月より、資源を求めて南部仏印(現ベトナム)へ侵攻した。
○さらに怒ったアメリカは、日本のインドシナ進駐と同じくして、在米日本資産の凍結決定と日本への石油輸出停止を実施した。他国もアメリカに倣って日本との貿易を停止するに至った。これを「ABCD包囲網」(米・英・中・蘭)の頭文字から)と云う。
○日中戦争当時の1日の石油消費量は1万2千トンであった。日本軍はそれまで全く手をこまねいていた訳ではなく、南部仏印進駐の3か月前から、アメリカとの和平交渉はもっていた。交渉の表役は中米大使の野村吉三郎と国務長官のコーデル・ハルであった。日本の要求は中国への支援停止と輸出制限の解除であり、アメリカは三国同盟の破棄と大陸からの撤退を主張した。それも日本の南仏印進駐で難航sた。
○交渉の真只中、1941年11月5日の御前会議において「対米英蘭戦の開戦」を決定した。それでも11月末までの期限で交渉は続行された。
○譲歩した日本の案は、「中国との和平後に大陸から撤退する」(11月7日の「甲案」)と「南部仏印からの撤退と引き換えに禁輸処置の解除を求める」(11月20日の「乙案」)であったのに対し、11月26日のアメリカの回答は日本にとって到底呑み難い10項目にわたる内容であった。とくに「南部仏印を含むアジアからの無条件撤退」・「アメリカが支援する中国国民党政権のみの承認」・「日独伊三国同盟の無効化」が一方的であり、アメリカの要求は、「資源を恵んでほしいのならば、中国大陸を満州事変前の状態まで巻き戻せ」であった。これが後世の俗に云われる「ハル・ノート」(「アメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要」)である。
○とくに「アジアからの無条件撤退」に軍部が憤激。アジアの中に当然ながら満州も含まれるとしたのである。満州国は日本の生命線であり、いかなることがあろうとも、満州国を放棄することは不可能であったのだ。すでに日中戦争で十数万の犠牲者があり、無条件撤退は軍部だけでなく世論も黙っているはずがないほど、日本人の心は戦争一色であったのである。
○ときの東条英機首相は、天皇陛下に「ハル・ノートはアメリカからの最後通牒です」と告げ、政府も和平交渉を断念するに至る。
○ついに12月1日、御前会議で日米開戦が決定。(ここまで1月5日記)
つづく。