●毎回のことですが、スタッフへの旅の土産選択には少しばかり苦慮しますが、記念館を訪ねた場合には「伝記」なる重宝なものが存在しますから、ラクであります。高知は龍馬記念館があり、福島には野口英世がおり、今回は宮沢賢治がありました。宮沢賢治は、その短い生涯の最晩年の1931(昭和6)年9月、技師として就職した東北砕石工場の仕事(宣伝販売)で上京しました。しかしその到着直後、前からくすぶっていた肺結核が再燃し、数日で花巻への帰宅を余儀なくされたのです。その東京の宿の病床で書いたと思われるのが、以下の父母への遺書です。1931年9月21日、賢治35歳の時です。賢治はそのちょうど2年後の1933(昭和8)年9月21日、午後1時30分、37歳の生涯を閉じました。最後は、母上に、「お母さん、お水・・・・・・」「ああ、おいしい」と言って亡くなったと、伝記にはあります。
父上様 母上様
この一生の間
どこのどんな子供も受けないやうな
厚いご恩をいたゞきながら、
いつも我慢でお心に背き
たうたうこんなことになりました。
今生で万分一も
ついにお返しできませんでした
ご恩はきっと次の生
又その次の生でご報じいたしたいと
それのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくても
お題目で私をお呼びだしください。
そのお題目で
絶えずおわび申しあげお答へいたします。
九月廿一日
父上様
母上様 賢治
つづく。5月23日。