●「いだごろ」にしても「日向ひょっとこ」にしても、魚や泥鰌を捕獲する一連の所作を、そして「おわら風の盆」も稲刈りの作業を踊りで表現した・・・・・・ものということです。では「おわら風の盆」と「いだごろ」との違いは、その歴史(発生)の古さではなく、後世の人々の踊りに関する情熱の温度差のようです。「おわら風の盆」は、「唄い手」「囃子」「三味線」「太鼓」「胡弓」の地方と、踊りの振り付け、企画(プロデュース)全般にわたって、編年的進化を遂げてきているということでしょう。それには保存会をはじめ、歌詞や旋律、振り付けなど様々に、時代時代にそれぞれの分野の名手が登場し、登場させてきたということでしょう。「日向ひょっとこ」は全国展開の奮闘発展中ですが、「いだごろ」も色んな仕掛けを打って「おわら風の盆」に見習ってみてはどうでしょうか。「おわら風の盆」は完。9月20日。
●野球にもある「走攻守三拍子そろった」という表現がある。では民謡や盆踊りの三拍子とはなんだろうか・・・・・・①口説き節(歌詞・唄)と②楽器に③踊りであろうか。(囃子・合いの手は口説の範疇でしようか)。音楽全般音痴の小生が観た「おわら風の盆」の感想?・・・・・恥を忍んで書いてみましょう。
1.歌詞が凝っている。
歌詞の基本は、7、7、7、5の26文字で構成する甚句形式であり、最後の5文字の前に「オワラ」を入れるのが基本の「正調おわら」(平唄)。それ以外に「五文字冠り」、「字余り」があり、正調に比べ地方泣かせである。歌詞は、古くから伝わる「おわら古謡」と「新作おわら」がある。おわら古謡は古くから伝わるもので、新作おわらは、野口雨情(1882~1945)、佐藤惣之助(1890~1942)、水田竹圃、高浜虚子(1874~1959)、長谷川伸(1884~11963)、小杉放庵(1881~1964)、小川千甕、林秋路ら、八尾を訪れた文人たちなどによって新しく作られたものである。 1928年(昭和3年)1月28日、保存会長の招きで八尾を訪問した小杉放庵は、「曲はいいのだが唄が下品なものも多くこのままではおわらは廃れると進言したことによる。そして今の歌詞の数は千単位で、膨大という。また、「今日のおわら節が完成されていく過程で、さまざまな唄い手の名手がいたことを忘れてはならない。なかでも、『江尻調』といわれる今日のおわら節の節回しを完成した江尻豊治(1890年~1958年)の功績は計り知れない。天性の美声、浄瑠璃仕込みの豊かな感情表現。おわら節の上の句と下の句をそれぞれ一息で歌い切る唱法は、江尻によって完成の域に高められたのである。」(Wikipedia参考)。何事も醸成される過程ではそれぞれにキーパースンが欠かせないということ。
2.楽器に胡弓が加わる。
ちょっと広めの路地いっぱいに哀愁を漂わせる張本人は、何と言っても胡弓。「おわらにはなくてはならない哀調の音色を奏でる胡弓ですが、八尾では『目立ってはいけない楽器』として教えられる楽器です。胡弓が松本勘玄によって取り入れられたのは、比較的新しい明治40年代のことです。輪島塗の旅職人であった勘玄が八尾に来たのは20歳の頃、明治30年代のことでした。勘玄は大阪で浄瑠璃修行をしていたことがあり、義太夫、端唄、長唄、小唄とあらゆる三味線音楽に通じていました。ある日八尾に越後瞽女の佐藤千代が訪れ、勘玄は胡弓に出会います。以来、おわらの唄と三味線に胡弓を合わせようと、日夜研究に励みました。その苦心の結果現在の哀愁を帯びた独特の旋律が生み出されました。」(おわら風の盆行事運営委員会のホームページ)。
3.女性が編笠を被り、顔を見ることができない。
「昭和4年に、東京三越で富山県の物産展示即売会でのアトラクションの呼びかけがあったのを契機に、富山県の要請で医師の川崎順二を中心に『おわら』の修正がなされました。踊りは若柳吉三郎、唄は常磐津の林中、四季の歌詞は小杉放庵らに依頼しました。若柳は40日間八尾に滞在し、八尾の情感を体に溜め、熟させて、5月に『四季の踊り』が仕上がりました。東京三越で初めて芸者が披露し、きれいな踊りと大人気でした。当時『おわら』は芸者が踊り、町の娘は踊りませんでした。『女踊り』は鏡町の芸者が踊り、『男踊り』は『甚六会』が踊りました。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかでした。しかし、医者で名門の川崎順二は、5人の娘を率先して踊りに出しました。『あの川崎先生の娘さんが踊っているのなら』ということもあって、一般の人も踊るようになったといわれています。<豊年踊り>古くから踊られる踊りで、種まきや稲刈りといった農作業の動きを手や指先を巻くように舞踊の要領で表現しています。男踊り、女踊りを『新踊り』と呼ぶことから豊年踊りは『旧踊り』と呼ばれることもあります。<男踊り>男踊りは、男性の舞台用として振り付けられた踊りです。日本舞踊の若柳吉三郎によって振り付けられ、素直で素朴な直線的力強さの中にしなやかさを持つ魅力的な踊りで農作業の所作を表した踊りです。<女踊り>女踊りも女性の舞台用として振り付けられた踊りです。『四季踊り』ともいわれ、画家であり俳人でもあった小杉放庵が八尾の春夏秋冬を詠った『八尾四季』のために振り付けられたのが最初で、その後夏の河原で女性が蛍取りに興じる姿を表した一連の女踊りが完成しました。男踊りと同じく若柳吉三郎の振り付けだけに日舞の艶めきがあります。」(おわら風の盆行事運営委員会のホームページ)。
・・・・・・でしょうか。つづく。9月20日。
●幸運なことに私の田舎にも盆踊りがあります。「いだごろ踊り」と言います。「いだ」とは川魚のウグイのことで全国区(標準語)です。「いだごろ踊り」の由来は、美郷町公式サイトを拝借すると、
「宝暦年間(1751~64)延岡藩の飯田五郎という警護番の武士が、毎年、今の美郷町南郷に派遣され、庄屋の家に泊まっていた。川があるのに毎日の食事が鶏や兎の料理だったため、不思議に思った警護番は、その理由を聞いた。『小丸川の下流に大きな滝があって、ここまでは魚がのぼってこない』との返事だった。 警護番は、村人3人とともに、児湯郡木城町の川で『うぐい(いだ)』を捕獲し、持って帰って近くのに川に放流した。そして、『この魚が増えるまで3年間は取ってはいけない』とお触れを出した。それを守った村人たちは、それ以降住み着いた新鮮なうぐいを食べられるようになった。当時の村人の3年後の解禁の喜びはたとえようのないものだった。魚取りの状況(手まね、足まね、網を投げるまね、魚取りかごに入れるまねなど)が、踊りのもととなっている。 この踊りを、警護番の飯田五郎への感謝の気持ちを現わし、『いだ五郎踊り』という名前を付け、川祭りに魚の供養としていたのが、現在の盆踊りとなっている。」・・・・・・というというものです。「いだ」は魚のウグイで、「ごろ」は人の名前から来ているということです。この「いだごろ踊り」祭りも今年で41回を数えるそうで、口説(歌詞)と三味、囃子(合いの手)の舞台(棚)も大がかりのようです。私が中学まで地域(小字)の初盆の家々を順々に回って、この「いだごろ」を朝方まで踊っていました。むろん飲みながら。旧南郷村の今は過疎化が著しく進行し、老いも若きも減りに減って、の賑わいだ往時の踊りの面影はもうないようですが、踏ん張って、絶えさせてはいません。つづく。9月18日。