●戦国の世、日向国の統治は以前ながら伊東氏であり、その全盛期は日向伊東氏11代(伊東氏16代)の義祐(1512~1585)からその子の義益(1546~1569)の頃でろう。当時、義祐が当主である頃は佐土原城を、義益が当主である頃は都於郡城を中心とした48の外城及び砦が存在し、そのひとつが神門城なのである。もともと伊東氏は鎌倉時代に地頭として伊豆から日向に来、足利尊氏によって都於郡に所領を得たという。古墳時代もそうであったが、その後も長く日向国(宮崎県)の中心(県都)は西都や佐土原だったということだ。再確認だな。そこでやはりWikidediaの力を借り、西都の歴史を知りましょう。
「▼律令期には現在市の中心部となっている妻(つま)地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えた。室町時代~戦国時代には日向国の地頭、伊東氏が市南部に都於郡城を構え本拠地とし、領国経営の拠点とした。天正遣欧少年使節主席正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは、都於郡城で生誕した伊東氏の一族である。薩摩の島津氏の侵攻により伊東氏が一時没落した後、都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は完敗・敗北遁走し、都於郡城は戦後廃城となった。
▼江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北(ほきた)地区は幕府の天領となり、三財(さんざい)・三納(みのう)・都於郡(とのこおり)地区は佐土原藩島津家2万7千石に組み入れられた。この時期には伊東氏飫肥藩領の赤江・城ヶ崎(現宮崎市)が江戸・上方との物流拠点としての性格を備え、西都地区は日向国の拠点としての機能を次第に失ったようである。
▼律令期には現在市の中心部となっている妻(つま)地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えた。室町時代~戦国時代には日向国の地頭、伊東氏が市南部に都於郡城を構え本拠地とし、領国経営の拠点とした。天正遣欧少年使節主席正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは、都於郡城で生誕した伊東氏の一族である。薩摩の島津氏の侵攻により伊東氏が一時没落した後、都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は完敗・敗北遁走し、都於郡城は戦後廃城となった。注:律令時代「広義には7世紀半ばから10世紀ころまでの間、狭義には奈良時代」(広辞苑)。
▼江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北(ほきた)地区は幕府の天領となり、三財(さんざい)・三納(みのう)・都於郡(とのこおり)地区は佐土原藩島津家2万7千石に組み入れられた。この時期には伊東氏飫肥藩領の赤江・城ヶ崎(現宮崎市)が江戸・上方との物流拠点としての性格を備え、西都地区は日向国の拠点としての機能を次第に失ったようである。」(Wikidediaをそのまま)。
注:日向国分寺は741~756年の間に建てられたという(「続日本紀」)。明治3年の「大教宣布」と明治4年(1871)の「神仏分離令」による「廃仏毀釈」(明治4年)により、日向国分寺も廃寺となる。これもモッタイナイことだな。そもそも国分寺はいかなる理由で全国に建てられたのか・・・・・・それは聖武天皇が741年、国の統治をやりやすくするために全国に配置。明治政府が神道(天皇)を国家統制のために利用したのと同じく、聖武天皇は「仏教」をそれとした・・・・・・のである。この「廃仏毀釈」は歴史的に罪深い政治的弾圧である。これによって特に宮崎、鹿児島の寺の多くが破壊されたことを知らなくてはならない。
つづく。11月19日。
●興味のついでながら飫肥について調べよう。
①飫肥城を築城したのは土持氏(宇佐八幡宮の神官の出)・・・・・・南北朝時代のこと。
②室町時代末期の1458年、島津一族の志布志城主、新納忠続(?~1489)を入城させる。
③戦国初期には、薩摩国の島津氏の属城として土持氏が治める。
④1484年、日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り、飫肥に侵攻。その後、断続的に侵攻を繰り返し1567年、伊東義祐(1512~1585)が遂に飫肥城を奪取。
⑤1572年、木崎原の戦で没落し、日向国全土を島津氏が治める。飫肥も島津へ。
⑥1587年、伊東輔兵は秀吉率いる九州平定軍の先導役を務めた功で飫肥を取り戻す。関ヶ原合戦でも九州では少ない東軍に加わったことで、明治の版籍奉還まで飫肥の大名を守る。
つづく。11月19日。