●大分こぼれ譚・・・・・・大分2日目、レンタカーを借りて豊後竹田の岡城へ。竹田市到着は昼時。さて何を喰おうかと狭い街並みをほぼ一周し、前日からの飽食でもあり、昭和の体むんむんのこじんまり大衆食堂へ。ちゃんぽんを喰らって駐車場を見回すと立派な人物像がありました。それが写真の”軍神”、広瀬武夫中佐(1868~1904)であります。なるほどこれが彼の文部省尋常小学唱歌に歌われた「広瀬中佐」かと感懐しました。同時に司馬遼太郎の「坂の上の雲」の情景がはっきりと浮かびました。同行の者は、むろんチンプンカンプンでしたが。それではれいのWikidediaを拝借して広瀬中佐を書き留めておきましょう。
①1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事。
②3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
③広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だった。即日中佐に昇進した。(Wikidediaより)。 12月1日。